重北軽南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 07:46 UTC 版)
歴史
「重北軽南」という語句は2つの意味合いを軸に展開されている。一方は民間由来での「重北軽南論」。他方は政治家由来の「南北差異論」である。前者は台湾南部の市民が中央政府による富の再分配が長きに渡り北部偏重で不公平感が放置されてきたこと、後者は初期の政治家が市民を出身ごとに選別するために創造したもの[6]。
経済
民間において「重北軽南」なる用語が使われてきたのは清代末から日本統治時代にかけて台北が政治経済の中心地となったことが遠因であり[6]、さらに決定的な要因としては1957年に台北市が直轄市に昇格以降、市の財政が他市に比して優勢となったことである。この趨勢は他県市と台北市の財源格差をもたらした[6]。
1980年代の台湾の産業構造の変化とともに、従来は南北分散に近かった労働力の流動が北部への片方向の集中と変遷したこと、それによる様々な因果関係を巡って市民の論議は継続している[6]。高雄市の人口が2017年夏に台中市に抜かれ国内3位となったことについて高雄市長の陳菊は「半世紀にわたる『北重軽南』政策がもたらした不均衡な国土発展によるもの」としている[12]。
政治
「南北差異論」は中国国民党(国民党)の党内において省籍における闘争があったことに起因する[6]。国民党内には「非台湾省人」を主流派として構成されたグループの「新国民党連線」(現新党の前身)があり、自身や支持者の外省人としての特徴を希薄化させたり自集団と党主流派の「省籍差異」を「(台湾における)地域差異」を包含するものへと変遷させることを試み、従来の外省人とそれに対比される本省人の話題を「『台北都市圏の中産階級』と『中南部郷村選出の市民』」で置き換えることを推進してきた[6]。
「南北差異論」は本来は国民党内の政治闘争を提議するものとして出現したが、現在では国民党と民主進歩党(民進党)の2党による、主に選挙期間中に強調される政党間の闘争へと意味合いが変貌している。2000年以降は北藍南緑[註 1]という用語が登場し南部人と北部人の差異を広報する手段として用いられるようになった[6]。
忘中
21世紀になってからは台湾高速鉄道や高雄捷運の開業などで南部の交通インフラには一定の改善がみられたが、依然として台中市を中心とした中部での整備が遅れていることについて、台中市選出の時代力量所属立法委員洪慈庸が2016年に桃園空港偏重の航空政策を批判する際に[13]、市内の鉄道網整備を掲げていた台中市長の林佳龍が2017年に鉄道インフラの整備の遅れを批判する際にそれぞれ「重北軽南忘台中」と表現した[14]。
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