連合赤軍
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発足
日本共産党で当時実権を握っていた所感派が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、1955年の日本共産党第6回全国協議会では武装闘争路線を変えた指導部への不信・不満を募らせ、日本社会党に続いて日本共産党という既成左翼政党が武装闘争路線を事実上放棄したとして反発した者達を中心に、当初の日本共産党の武装路線を継続する新左翼と呼ばれる過激派が誕生した[注 1][1]。
しかし、日本の学生運動が下火になっていた1971年当時も残存する新左翼組織であった赤軍派と革命左派は大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などで最高幹部クラスが逮捕、国外逃亡、死亡するなどして弱体化していた。赤軍派はM作戦(金融機関強盗)により資金力はあったが、武器がないのが弱点であった。一方の革命左派は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃を手に入れていたため武器はあったが、資金力がなかった。
互いの活動を評価していた両組織は以前から接近していたが、それぞれの利害が一致したことから、赤軍派の軍事組織である中央軍と革命左派の軍事組織である人民革命軍が統合し、統一された「赤軍」(統一赤軍)として7月15日付で生まれた。
赤軍派幹部の一人である森恒夫は当初から党の統一を志向していたが、獄中の革命左派議長である川島豪らの強い反対で連合赤軍に改称された。
1971年12月上旬、両派は南アルプスで初の合同軍事訓練を行う。しかしその場で両派の間に対立が生じる。背後には両派の間での主導権争いがあったとされる。結局両派はお互いの批判を受け入れ、この合同軍事訓練は表面上は友好的に終わった。
その後、両派の非合法部は1971年12月20日ごろに榛名山の革命左派山岳ベースで指導部会議を開催するが、それとほぼ同じ頃に非合法部と合法部の対立が発生した。山岳ベースの非合法部指導部は赤軍派・革命左派両派による「新党」の結成を確認するとともに、合法部を分派と決め付け、「銃を向ける」ことも含めた暴力的党派闘争が検討された。更に合法部寄りと判断したメンバーに対し、初めて暴力による「総括」(後述)が行われた。
「新党」では1972年1月3日、独自の中央委員会(CCと略される)が結成される。中央委員会は委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長が坂口弘、その他中央委員は序列順に寺岡恒一、坂東國男、山田孝、吉野雅邦の4人であり、中央委員会のメンバーは計7人であった。しかし組織の実態は森が独裁的な権限を持ち、永田と坂東がそれを強く支える体制であった。
注釈
- ^ 武装革命に賛同して戦後に日本で暴力行為を扇動・参加していた多数の日本共産党の党員は1955年の路線転換後も罪を問われずに在籍し続けて責任を取らなかったことから、党の暴力革命路線をその後も続いた新左翼の誕生の責任を負うべきだと元党員からも批判がある。
- ^ 本来は、「当初の方針どおりの活動ができたかどうかの確認作業」という程度の意味で、連合赤軍のみならず新旧左翼諸党派や学生団体、労働団体等において広く使われていた用語である。つまり、現代風に言えば「PDCAサイクル」のC(check)に相当する。ところが、一連の連合赤軍の事件以降、「内ゲバによるリンチ殺人」という意味合いが加わったため、党派によっては「総括」という用語の使用を止めたところもあった。
- ^ これは連合赤軍ではなく「共産主義者同盟(RG)服務規律」では。『RG資料集』(共産主義者同盟(RG)発行、1979年3月)収録の服務規律とほぼ同文
出典
- ^ 神山茂夫『日本共産党とは何であるか』自由国民社、p140-141)
- ^ あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 ~連合赤軍45年目の新証言~
- ^ https://web.archive.org/web/20170624030744/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170305-OHT1T50303.html
- ^ [1]「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 ~連合赤軍45年目の新証言~」,world news
- ^ [http:// ]「韓国」,聯合ニュース,2016年10月24日.
- ^ https://news.yahoo.co.jp/byline/joshigeyuki/20170623-00072459
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