藤本軍次
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栄典
関連書籍
- 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』(三樹書房・2022年刊)
脚注
- 出版物
- ウェブサイト
参考資料
- 書籍
- 自動車工業会『日本自動車工業史稿』 第2巻、自動車工業会、1967年2月28日。ASIN B000JA7Y64。 NCID BN06415864。NDLJP:2513746。
- 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670。ISBN 978-4-89522-667-7。 NCID BB23601317。
- 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』三樹書房、2022年4月20日。ASIN 4895227723。ISBN 978-4-89522-772-8。 NCID BC14200480。
- 雑誌 / ムック
- 『自動車ジュニア』
- 『1965年1月号』創進社、1965年1月1日。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000004222939-i19065460。
- 『1965年2月号』創進社、1965年2月1日。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000004222939-i19065460。
- 『Old-timer』各号中の記事
- 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。
- 『サンデー毎日(NCID AA1201550X)
- 『1967年8/27号』毎日新聞出版、1967年8月27日。
- 新聞
注釈
- ^ 「享年84」[2]。
- ^ 『日本自動車工業史稿』では、1909年の出来事となっている[6]。
- ^ この時の排日運動は「日本人の経営する販売店で買った車にはガソリンを売るな」という事態になるほどの激しさだった[9]。
- ^ 『日本自動車工業史稿』では「28歳」となっているが[4]、これは数え年で、藤本は1895年10月生まれなので後の書籍では満年齢で「26歳」と記載されている[1]。
- ^ 軍隊は例外で、帝国陸軍では東京・青森間などの長距離をトラックで試走したといった話が複数ある。
- ^ 道があまりにも狭く、大八車や馬車と行き合ってもすれ違ったり、追い越したりすることができず、遅い大八車に合わせた走行を強いられたりするなどして立ち往生させられ、加えて、橋の数が少なかったため渡河にも時間を要した[20][17][18]。
- ^ 日本自動車教祖倶楽部の設立時期については諸説あり、第1回大会と第2回大会の間の時期という説もある[21]。日本自動車競争倶楽部は設立を「大正11年10月」としているので[22]、それに沿って記載している。
- ^ 米国時代にも扱っていたムーンを扱う[24]。ムーン社は1930年に倒産。
- ^ マーモンのルーズベルトという車種を扱う[24]。マーモン社は1933年に倒産。
- ^ ハップモビルを扱う[24]。ハップモビル社は1940年に倒産。
- ^ 1920年代当時、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』によるレポート記事でも、藤本のハドソンの古さは各大会で言及されている。
- ^ 上記したように、こうしたセオリーについて、藤本は大会の他の参加者にも教えていたと考えられている[23]。
出典
- ^ a b c d e f g h i 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.268–p.276 「藤本軍次年譜」
- ^ a b c 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.108–p.109 「祖父 藤本軍次のこと」(藤本隆宏)
- ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.20
- ^ a b c 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.608
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.8
- ^ a b c d e f g h 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.609
- ^ a b c d e 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.12
- ^ a b c d e f g h i j k 自動車ジュニア 1965年1月号、「藤本軍次伝 (上)」第一章 pp.88–89
- ^ a b c d e 自動車ジュニア 1965年1月号、「藤本軍次伝 (上)」第二章 pp.90–91
- ^ 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.614
- ^ 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.612
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.10 「インディアナポリスの自動車レース」
- ^ 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.613
- ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.3–p.5 「巻頭言 もうひとつの戦前史」(藤本隆宏)
- ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.25
- ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.30
- ^ a b c d e f g h i 自動車ジュニア 1965年1月号、「藤本軍次伝 (上)」第三章 pp.91–92
- ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.10 「東京─下関間、急行列車と競走 藤本軍次氏談」
- ^ a b c 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.65
- ^ a b c d e f 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.615
- ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.95
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.143
- ^ a b c d 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次(岩立)、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
- ^ a b c d e f g 自動車ジュニア 1965年2月号、「藤本軍次伝 (下)」第四章 pp.88–90
- ^ a b c d e f 自動車ジュニア 1965年2月号、「藤本軍次伝 (下)」第五章 pp.90–91
- ^ a b 自動車ジュニア 1965年1月号、「藤本軍次伝 (上)」経歴 pp.89
- ^ サンデー毎日 1967年8/27号、「レーサーの"年齢記録"にいどむ!」
- ^ a b c d e f g R・ダニエル(R. Daniell) (1923年7月23日). “Says auto racing in Japan will have promising future” (英語). The Japan Advertiser: p. 12
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.11
- ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.138
- ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.34
- ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.139
- ^ a b c d 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.610
- ^ a b 『官報』11672号(昭和40年/1965年11月6日)、p.11
- ^ 車屋四六 (2007年3月21日). “<風神雷神車神> No.74 日本自動車競争の始まり-1”. モーターファンダイアリー. 三栄書房. 2007年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月12日閲覧。
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