第二次ブルガリア帝国
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宗教
異端の教義
第二次ブルガリア帝国内では異端と見做される教義も信仰されていた。
第一次ブルガリア帝国の時代からブルガリア内で活動していたボゴミル派は、ブルガリアが内訌によって混乱する12世紀の末から信者を増加させた[38]。ボリルの統治下では皇帝の治世に不満を持つ民衆の間にボゴミル派が流布したため、1211年2月にタルノヴォの議会はボゴミル派に異端宣告を行って彼らを迫害した[29]。しかし、ブルガリア社会に定着したボゴミル派を根絶することは不可能だった[30]。政情が安定したイヴァン・アセン2世の治世にボゴミル派への迫害は緩和される[38]。14世紀に入るとボゴミル派の信仰者は一部の修道士や都市の下層民に変化し、様々な分派が生まれた[99]。
民衆に流布する異端に対して、貴族層は14世紀半ばに東ローマで提唱された静寂主義(ヘシカスム)の教えを受け入れた[100]。静寂主義は正教会の教えと調和する点もあったために正教の教義に組み入れられ、また支配層と密接な関係を有していた[100]。静寂主義は異端、腐敗した聖職者、ローマ教会との合同に対する批判手段として機能し[99]、文学と芸術の発展にも貢献した[100]。
静寂主義の普及と同じ時期に、コンスタンティノープル出身の修道士・医師のテオドレトスはタルノヴォにバルラーム主義をもたらした。カラブリア出身の修道士バルラームが提唱したバルラーム主義は、ギリシア哲学の流れを汲む合理性を備えていた。バルラーム主義は都市の下層民には受け入れられず、富裕層と一部の貴族に支持者を得る[100]。都市部のユダヤ系住民の間で信仰されたユダヤ主義は、バルラーム主義と類似した合理主義性を有していた[99]。
1355年と1360年にタルノヴォで開かれた宗教会議では、既成の権力と対立する思想に異端の宣告がされた[101]。14世紀に開かれた2度の宗教会議では、変質したボゴミル派以外にバルラーム主義とユダヤ派に対しても弾圧が加えられた。
教育の場としての教会
第二次ブルガリア帝国期、教会は教育の場としての役割も有していた。修道院の付属校と大都市に存在する教会付属の学校では、聖職者と書記官の育成を目的として若年者への読み書きの教育が行われていた[102][103]。学校を卒業した生徒のうち数人は修道院に入って「グラマティク」の称号を得、修道院が所蔵する書物の講読と書写によって学識を深めると共に教師の資格を得た[102][104]。さらにタルノヴォ、アトス山の修道院、コンスタンティノープルで教育を受ける者もおり、当時のブルガリアで実施された教育は高い水準にあった[102]。現存する第二次ブルガリア帝国の写本に見られる洗練された書法と正書法は、当時行われていた教育の賜物だった[104]。
注釈
出典
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