竹槍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 18:15 UTC 版)
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竹槍は、竹を柄にして先端に槍の穂先を結び付けた物と、竹を削って先をとがらせたものの2種類がある。
竹のみで作られた竹槍は、竹を適当な長さに切った上で、先端部を斜めに切断した、あるいはその円周の一部だけを尖らせたもので、更に火で炙るなどして硬化処理を施した簡易の武器であるが、竹が熱帯から亜熱帯・温帯・亜寒帯に掛け広い範囲に自生しているため、この竹自生地域ではほとんどタダ同然で入手できる武器である。ただしその威力は一度使用すれば貫通力が鈍る使い捨て程度で、こちらも「簡易」と呼ぶに相応しいものとなっている。
使用される竹は該当地域に自生するものに限られるため、その太さはまちまちである。しかし竹が垂直方向に繊維が揃っていて丈夫で、かつ中空であるため軽量、加えて使い捨てとはいえ白兵戦・CQCにおいては十分な殺傷能力を持っていたことから、広い範囲で様々な形で利用されていたと考えられる。
なお武器の性質としては竿状武器(ポールウェポン)となるが、その多くでは入手しやすいこと(=量産しやすいこと)から集団で利用するためにも便利が良く、これによって対象を相手の武器や牙・爪の間合いの外から取り囲んで、突いたり叩いたりして対象を攻撃するのに向いていた。
太平洋戦争中の大日本帝国陸軍では制式兵器として竹槍を採用していた。[要出典]また、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線など、近代のゲリラ戦でも活用された。インドネシア独立戦争でも使用され、そのため独立を達成するまでの勇気と犠牲を象徴するものとされ、戦争記念碑などのモチーフとされている[1]。
歴史
その起源は古く、竹林が自生する地域では鉄器文明以前から使用されていたとも言われているが、記録がない有史以前でもあり、材質的にも遺物として残りにくいため、詳細は不明である。
日本
日本では戦国時代にはすでに使用されていた記録があるが、当時は純粋な竹製のものだけでなく、(鋼鉄製の穂先を備えていたとしても) 柄が竹製であればいずれも竹槍と呼称していた[2]ので注意が必要である。明智光秀も落ち武者狩りをしていた土地の農民らの竹槍に掛かり果てたとされる[3]一方で、錆びた鑓との異説もあるのもこのためである。
江戸時代の百姓一揆による強訴は、支配層の武力転覆を狙ったものではなく、騒擾を起こすことによって責任問題を恐れる藩や代官に要求をのませようとする性格の行動であったため、農民としての身分を表す農具が使用された。狩猟用具であった鉄砲や竹槍を持ち出すことはあったものの、攻撃のために使用することはほとんどなかった[4]。青木虹二が江戸時代に発生した一揆3710件を調査した中で、竹槍で役人を殺害した事例は一例しか存在しない[5]。
近代以後も、民衆の暴動に際しては竹槍が活躍した。明治初年、農民は新政府の政策に反対する新政反対一揆の中で竹槍を頻繁に使用するようになった[5]。地租改正反対一揆を諷した「竹槍でドンと突き出す二分五厘」と言う川柳は著名である。明治6年(1872年)の筑前竹槍一揆で使用された竹槍は現在も福岡市博物館に現存している[5]。これらの一揆は明治十年代には沈静化し、自由民権運動が活発化すると、民権運動家から百姓一揆は古い型の運動であると否定的に見られるようになり、竹槍はその象徴として「竹槍筵旗」(ちくそうせっき、たけやりむしろばた)という言葉で表現されるようになった[6]。 明治31年(1898年)2月5日には衆議院議員選挙において、選挙人が刀剣や銃器・棍棒・竹槍を携帯することを禁じた決議が枢密院で行われている[7]。その後も1918年米騒動や小作争議、労働争議、外地における反日蜂起などで竹槍が用いられた。例えば1931年から1932年にかけて起こった阿久津村の小作争議においては、猟銃や竹槍などで武装した労農大衆党員が、地主と結託して農民を弾圧した愛国主義政党・大日本生産党の演説会事務所を襲撃する事件が1932年春にあり、死者4名・重傷者10名を出し[8]、最終的に死者は5名となり、109人が殺人罪で起訴・35人が実刑判決を受けている。東京市は東京市民の飲用水のために大宮・浦和町(いずれも現さいたま市)にある見沼を貯水池として中禅寺湖の3倍の規模にまで拡大する計画を1934年に発表したが、これに対する反対運動が激化した際、東京日日新聞は「竹槍席旗化しはせぬかと気づかわれている」と評している[9]、この計画は最終的に1939年に撤回されている。
十五年戦争中の大日本帝国陸軍においては、竹槍が兵器として使用された。まず、日中戦争の勃発当初においては、輜重・兵站などの後方部隊における補助兵器として竹槍が配分された。その後、太平洋戦争中の1942年には大日本帝国陸軍の「制式兵器」(軍から兵士に配備される正規の兵器)として正式に竹槍が採用され、前線の兵士に竹槍が配備された。銃後の国民においても、1943年には陸軍が策定した「竹槍術」のマニュアルが配布され、学生や主婦など民間人の間で竹槍の製造と訓練が行われた。さらに1945年には竹槍は本土決戦に備えた「決戦兵器」と位置付けられ、国民義勇隊の主要装備のひとつとされた。また、軍では「制式兵器」としてだけではなく「自活兵器」(窮乏した兵士がありあわせの物から自作した兵器)としても採用され、使用する兵器に欠く陸海軍部隊が自作して小銃の代わりに装備した例が多見される。明治以前に一揆などで使用されていた物は長さが通常の槍と同じく3メートルから4メートルと長かったが、大日本帝国陸軍の制式兵器として規格化された竹槍は子供用が150センチほど、大人用が170~200センチほどだった。直径は3~5センチである。実態としては槍というよりも銃剣の代用品であり、行われた訓練(竹槍術)は銃剣術と同じだった。
戦後では、昭和時代中期に新左翼過激派が鉄パイプや火炎瓶などとともに使用した例があり、例えば1971年の東峰十字路事件などで竹槍が使用された。
中国・台湾
中国・台湾でも昔から使用されていたようだ。明の時代には、日本刀で武装した倭寇に穂先を斬り落とされないように、枝葉の付いた青竹を竹槍の柄にする「狼筅」と言う武器が考案されている。
近代にいたっても、日本統治下となって日本軍による竹槍教練が始まる以前より使用されていたようだ。台湾において使用された例として、1930年に台湾原住民であるセデック族の民衆が日本人に対して蜂起した霧社事件において使用されたとの記録がある[10]。
近代に入って中国の正規軍で竹槍を使用したという例は無く、むしろ毛沢東率いるゲリラ兵である八路軍の農民兵が拳銃で武装しているのに対し、これと対峙する日本軍は都市ごとに補給が分断されて武器がなくなり、正規軍なのに竹槍訓練をしていたという記録がある。
インドネシア
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インドネシアでは、竹槍は「Bambu Runcing」と呼ばれる。日本軍が1942年に蘭印(現在のインドネシア)を占領した後、1943年10月より住民統制を目的とする隣組(インドネシア語でも「Tonarigumi」と言う)をジャワ島ほか各地に設置した日本の軍政当局によって竹槍術の教練が行われており、ポンティアナック事件(1943年、西カリマンタン州ポンティアナック市で大日本帝国海軍が住民を虐殺した事件)の後にダヤク族が竹槍で蜂起したり、またシンガパルナ事件(1944年、タシクマラヤ県シンガパルナ村で農民が武装蜂起した事件)では「反乱の恐れあり」として農民をスパイしていた日本の憲兵を人質に取りながら農民が軍政当局に対して竹槍で蜂起するなど、インドネシア各地で竹槍を掲げた反日武装蜂起がいくつも起こっていたが、しょせん竹槍では近代兵器で武装した大日本帝国陸海軍に敵うはずが無かった。しかし、インドネシア人が竹槍で占領軍に対して勝利を勝ち取るのは、インドネシア独立戦争においてである。(なお、「Tonarigumi」は住民の相互扶助・相互監視による軍政当局の負担軽減化を狙って日本軍政当局が設置したものだが、竹槍訓練・防火訓練などで住民を団結させ、その後の独立戦争でも大きな役目を果たしたことから、インドネシア共和国でも最小の行政単位である「Rukun Tetangga」および「Rukun Warga」としてほぼそのまま残っている)
まず、第二次大戦で日本軍が降伏した1945年8月15日から、連合国軍がインドネシアに上陸する9月-10月までの間、ラングーン協定により連合軍に武器を引き渡す義務を負った日本軍と、日本軍に対して連合軍の上陸前に武器の引き渡しを求めて竹槍などで武装したインドネシア青年団(pemuda、「若者」「青年」の意味。「青年民族主義者」とも訳される)と呼ばれるインドネシア人の独立運動過激派の若者集団との間で、各所で小競り合いが起こった。連合軍とインドネシア青年団の間で板挟みになった日本軍の対応は各部隊でまちまちで、スラバヤ(岩部重雄少将の指揮下)など日本軍がインドネシア人に協力的であった地域においては、青年団による武器の略奪を黙認する形で機関銃や竹槍などの旧日本軍の武器がインドネシア人にほぼ無血で引き渡されたが、バンドンやバタビア(馬淵少将の指揮下)、スマラン(城戸少将の指揮下)など、日本軍がインドネシア人に非協力的であった地域においては、蜂起した青年団が武器の引き渡しを求めて日本兵を襲い、日本軍自らがインドネシア人に教練した竹槍術によって多数の日本人がインドネシア人に殺傷されている。第16軍の宮本静雄参謀は日本軍の武装解除と射撃の原則禁止を通達していたため、無抵抗の日本兵が竹槍で虐殺された事件もいくつかあり、例えばバンドン近郊のブカシでは海軍第五警備隊の竹下大佐ら86名が住民に虐殺されている(軍政期のインドネシア人が麻袋のズボンを履かされた仕返しとして、ブカシの日本人は麻袋のズボンを履かされたうえで虐殺されたとのこと。英雄記念日(Hari Pahlawan)の「竹槍行進」が「独立戦争の苦難を追体験する」と言う意味合いがあったのと同じく、現在は独立記念日の面白アトラクションと化している「麻袋レース(id:balap karung)」も元々は「日本統治時代の苦難を追体験する」という意味合いがあった。なお、ブカシ市が日本軍や連合軍の圧政を竹槍で打ち払ったことを示すものとして、ブカシ市には日本軍に使役される労務者(ロームシャ、インドネシア語でもそのまま「romusa」と言う)のレリーフなどを伴った竹槍記念碑の「ブカシ人民闘争記念碑(Monumen Perjuangan Rakyat Di Bekasi)」も存在するが、2005年には日本兵が竹槍で惨殺された死体が放り込まれたブカシ川のほとりに、日本とインドネシアの平和と友好の記念碑である「Monumen Tepi Kali」が建設されるなど、現在は日本とブカシ市の関係は友好的である)。1946年1月よりジャワ島から旧日本兵の復員が始まるが、復員させてもらえずに降伏軍人軍属として連合軍に使役されたり、インドネシア独立戦争に参加したり、日本軍の武装解除による治安の空白化によって増えた強盗に殺害された例なども含め、1000人以上の日本人が終戦後のジャワで日本に帰る前に亡くなっている。そのうちかなりの数が竹槍で惨殺された。(なお、インドネシア各地の独立戦争記念碑の前には、独立戦争の歴史を絵と文字で記したレリーフが設置されていることがあり、ブカシ市やスマラン市など、圧制を敷いた日本兵を竹槍で殺傷した歴史がある都市では竹槍記念碑の前にその通りのレリーフがある。ただし、日本兵の中には現地住民に英雄として称えられている人もおり、必ずしも全ての日本兵が竹槍記念碑の前で労務者に暴虐を振ったり青年団に竹槍で殺傷されているわけでは無い。特に、バリ州バドゥン県Mengwi郡Penarungan村でインドネシア人とともに独立戦争を戦った松井兵曹長・荒木兵曹の像は、竹槍記念碑の前によくいる日本兵とは打って変わって温厚な顔をしており、その人柄を偲ばせるものとなっている)

最も多数の日本人が竹槍で殺害された事で知られるスマラン市の「5日戦争」の例を挙げると、インドネシア側に協力的であった中部ジャワ防衛隊司令部の中村淳次少将が命令無視の廉で日本軍に逮捕され、シンガポールの南方軍司令部に更迭された後、代わってスマランを支配下に置いたスマラン駐屯軍の城戸少将と青年団の対立が激化し、緊張が高まる中で10月14日6時30分ごろより日本軍がプルサラ病院(現・Dr.カリアディ病院)の前で検問を開始。「日本軍が貯水池に毒を入れた」との不穏な噂が流れる中、18時00分ごろに日本軍が8人のインドネシア人警察官を武装解除した上で連行し拷問したためにさらに緊張が高まる。貯水池の調査をするためにシランダ貯水池に向かったプルサラ病院の院長であるDr.カリアディは、スマラン市のパンダナランで運転手とともに日本軍に銃撃され23時30分に死亡。一方青年団は10月14日にオランダ人2000人と日本兵約130人をブル刑務所に監禁。そして10月15日の未明3時30分より、現在の「青年の碑」(Tugu Muda)が立っている場所で城戸部隊と青年団の戦闘が開始された。青年団は「機関銃、小銃、竹槍など」[11]を用いて、スマラン憲兵隊が刑務所に突入する10月16日までにブル刑務所の日本人全員を虐殺。城戸部隊はその報復として、イギリスのグルカ兵がスマランに進駐する10月19日までに約2000人の青年団とインドネシア人民治安団(id:Badan Keamanan Rakyat、青年団を支援していた軍事組織、現在のインドネシア国軍の前身)を殺害した。10月19日に中部ジャワ州のウォンソヌゴロ知事の仲介によって城戸部隊とインドネシア人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat、人民治安団から改称)との間で交渉が行われ、また10月20日にはベテル准将が率いるイギリス軍によって日本軍の拘留と武装解除が行われ、10月20日にスマランの治安が回復された。城戸少将の判断の結果として最終的にスマラン在住の200名近い日本人が竹槍などで殺害される結果となったが、一方でブル刑務所に収容されていたオランダ人は全員無傷であり、城戸少将はスマランのオランダ人抑留者約3万人と武器を守り切った有能司令官として連合軍と南方軍の双方から称賛されたとのこと。インドネシアではこれを「Pertempuran Lima Hari」(5日戦争)と呼び、高校の教科書で習う。日本側ではこれを「スマラン事件」と呼び、「親日国であるインドネシア人が、アジア開放の為に共に戦った日本人を竹槍で殺傷するはずがない」と言う観点から、「スマラン事件は共産主義者が起こした」という説を唱える者もいるが、スマラン事件の現場には竹槍で日本軍に蜂起した青年団を称えるための「青年の碑」が現在立っており、鹵獲した銃剣付き三八式歩兵銃と竹槍を用いて九〇式鉄帽を被った日本兵を刺突する場面のレリーフも土台に掘られていることから、少なくともスマラン市側はそのようには認識していない。(なお、スマラン事件の犠牲となった日本人188名の慰霊碑が1998年にスマラン市当局の協力で西バンジルカナル川のほとりに建設され、「5日戦争の発端として日本軍に殺害された」と現地教科書にも載っているDr.カリアディを記念したDr.カリアディ病院と北海道大学が協定を結ぶなど、現在は日本とスマラン市当局との関係は友好的である。)
その後、日本軍から鹵獲した機関銃や竹槍などで武装したインドネシア民兵は、連合国軍の一員としてインドネシアに進駐したイギリス軍と戦った。特に、連合軍とインドネシア民兵との間でスラバヤ市において1945年11月10日より行われた「スラバヤの戦い」は、竹槍などで武装したインドネシア民兵側に多大な犠牲を出しながらもインドネシア独立戦争の端緒となった。そのためスラバヤ市には、連合軍に竹槍で立ち向かった英雄たちを記念する「竹槍記念碑(Monumen Bambu Runcing)」が建てられている。また、同じくインドネシア独立戦争の激戦地となったジョグジャカルタ市において、1949年3月1日のジョグジャカルタ奪還作戦(Serangan Oemoem)でスハルト中佐に率いられた1500人の竹槍部隊の奮闘ぶりは、オランダの「カラス作戦」によって壊滅したと思われていたインドネシア共和国軍の健在ぶりを世界に知らしめ、国連の圧力もあって1949年6月についにオランダがジョグジャカルタより撤退するに至ったことでも、またその後の「スハルト神話」の形成に一役買ったことでも知られており、ジョグジャカルタ市の奪還と独立戦争の闘士を記念するヨグヤ・ケンバリ記念館(ジョグジャカルタの小学生は遠足で必ず行く)にも、独立戦争で使われた竹槍が展示されている。
竹槍戦線(id:Barisan Bambu Runcing、インドネシア独立を求めて1945年11月に設立されたラシュカ(Lasykar、イスラム系民兵組織)の一つ)の指導者であるK. H. Subchi(「竹槍将軍(Jenderal Bambu Runcing)」の異名を持つ)は、日本占領期より竹槍をインドネシアのナショナリズムの象徴としていた人物として知られ、Subchiの故郷であるテマングン県パラカン市にはTAMAN BAMBU RUNCING(竹槍公園)が建設されている。また、パラカン市のアルバロカモスク(Masjid Al Barokah di Parakan)は、竹槍戦線を記念して竹槍をイメージしたモスクである。

独立後のインドネシアにおける竹槍は、鹵獲した武器の量が十分でないために竹槍で戦わざるを得なかった独立戦争の初期の苦難や、オランダ・日本・そして連合国に対して竹槍を持って蜂起した市井の民衆の勇気を象徴するものとされ、スハルト時代以後の経済成長期には竹槍を記念したモニュメントが各地に設立された。なお、公共建築としてデカい竹槍がインドネシア各地に雑に建設されている一面もあり、植民地支配に抵抗したポンティアナック市のサレカット・イスラムの英雄11人(ポンティアナック事件の犠牲となった3人を含む)を記念するために1987年に建設されたディグリス記念碑は、1995年に紅白の珍奇な塗装に変更されたため、市民から「口紅」と呼ばれる珍スポット扱いされていた(2006年に普通の竹のペイントに塗装し直された)。
21世紀のインドネシアにおいては、ほとんどのインドネシア人にとって竹槍は単なる「歴史」であるため、竹槍記念碑にwi-fiスポットを設置したり、台座に上って竹槍を掲げた独立戦争の英雄とツーショット写真を撮ってSNSにアップしたり、落書きされている記念碑も多い。戦後70年以上を経て、「竹槍で独立を勝ち取った」という戦争の記憶が忘れ去られつつある一方で、従来の「竹槍で独立を勝ち取った」という単純な史観(竹槍をナショナリズムの象徴として過剰に愛国心を煽るような史観)を超えようとするクリエーターも育っており、建国の英雄スギヤプラナタ司教を主人公とした『スギヤ』(Soegija、ガリン・ヌグロホ監督、2012年。スマラン事件を下敷きにしながら、従来のような激しい戦闘場面のある戦争映画ではなく、戦争の背後にある普遍的な人間性を描き、高い評価を受けた。日本軍と青年団の間で板挟みになって命を落とす日本兵を鈴木伸幸が好演した)、「スラバヤの戦い」をテーマとしたアニメ『Battle of Surabaya』(アリャント・ユニアワン監督、2015年。連合軍と結んでインドネシア独立を阻止しようとする忍者軍団をヒロインがいつもの竹槍ではなく忍者刀でボコボコにする)、などが制作されている。
21世紀のインドネシアにおいては、「竹槍精神」(semangat bambu runcing)は「チャレンジ精神」「ベンチャー精神」などと同じ意味で使われており、トコペディア(2009年に設立されたインドネシアの電子商取引大手。2014年にソフトバンクグループに入った)の創設者であるウィリアム・タヌウィジャヤも「竹槍精神」によって起業し、インドネシアの代表として稚拙な英語力ながら国外の投資家の投資を得た、と2017年に語っている[12]。2010年代のインドネシアを代表するIT起業家であるウィリアムは、「デジタル時代の竹槍精神」として「勇気」「粘り強さ(失敗を恐れずに事業を継続する)」「希望(独立の英雄のように崇高な目標を持つ)」を挙げており、「この3つの精神をもって正しい努力をすれば、君も夢を実現できる」としている。トコペディアはその竹槍精神によって、2011年にインドネシアに進出したグローバル資本の電子商取引大手である楽天(楽天市場、Rakuten BELANJA)を2016年にはインドネシアから撤退に追い込んだ。
21世紀のインドネシアにおいては、竹槍術は伝統武道のようなものになっており、たまにイベントなどで竹槍訓練が行われることがある。2018年2月15日、西ジャワ州ガルト県Selaawi市において子供たち630人による竹槍演舞が行われ、RECORD HOLDERS REPUBLIC(RHR、イギリスの世界記録認定機関)によって竹槍演舞の世界記録に認定された[13]。
ベトナム
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第一次インドシナ戦争(1946年 - 1954年)では竹槍は使われなかった。インドネシアの竹槍に相当する「独立戦争において使われた、日本の置き土産である勇者の武器」は刺突爆雷(Bom ba càng)であり、しかも棒の素材は竹ではなく木であった。
ベトナム戦争中のベトナムでは有刺鉄線の代わりとして竹槍が多用された。例えば、ベトナム共和国(南ベトナム)政府がアメリカの指導の下で建設した戦略村は、南ベトナム政府軍支配下地域の農民を竹槍のバリケードの中に築かれた「村」に移住させ、南ベトナム政府の「保護」と「財政支援」を与える、と言う物であった。これは農民に対して南ベトナム政府への忠誠心を育てると同時に、アメリカの傀儡である南ベトナム政府の打倒を掲げる南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)から孤立させて関係を断つことを狙ったものだが、農民を強制移住・強制収容するやり方は農民の反発を呼び、農民はかえってベトコンに流れるという、逆効果になった。
また、ベトコンがゲリラ戦用の無音武器やブービートラップ(仕掛け罠)として竹槍を使用しており、特に「パンジ・スティック(乱杭)」は効果的にアメリカ兵を殺傷できる竹槍兵器として鉄板であった。「パンジ・スティック」とは木や竹を削って尖らせたもので、例えば落とし穴を掘ってその底に竹槍を設置しておく(狼穽)。誤解されがちだが、落とし穴は落ちた人を竹槍で串刺しにして殺す物よりも、足または下肢のみにダメージを与える物が基本である[14] 。その意味では、例えば大きな落とし穴に切っ先を上に向けて設置するよりも、狭めの落とし穴の側面に切っ先を下に向けて設置しておいた方が、引っ張り出すのが困難となって足止め効果が大きい。また、落ちた人を救助するまでの間、搬送の為に担架を担いだアメリカ兵は機動力が落ちて殺傷するのが容易となり、病院への移送の為にわざわざヘリコプターを使わせるなど、部隊全体に効果的にダメージを与えることができる[14]。
他には、パンジ・スティックの切っ先に排泄物を塗りたくるのも効果的である(排泄物に含まれる細菌による感染症が狙い)。ワイヤーに引っ掛かると飛び出して串刺しにするといったものもあり、それらに掛かった兵士は見るも無残な姿となったため、アメリカ軍兵士にとって士気を下げるほどのストレスを与えたともされる。なおカンボジア内戦でのポル・ポト派も、これらの罠を地雷に次いで多用したが、竹槍ではなく木を尖らせたものを使用した。現代でも未開地の紛争では使用される事例がある。ただし、パンジ・スティックは1983年発効の特定通常兵器使用禁止制限条約で禁止されており、日本もこれを批准しているため、日本に竹槍パンジ・スティックを設置することはできない。
アメリカ
アメリカ陸軍のサバイバルマニュアル (FM3-05.70, May 2002) の12-18項は即席の槍を作る方法を説明しており、合わせて竹槍の作り方も図解されている。
作り方
竹を削って先をとがらせたタイプの竹槍と、竹を槍の柄として使って穂先としてナイフなどの刃物を結び付けるタイプの竹槍がある。大日本帝国陸軍の制式兵器としての竹槍については後述。
戦国時代の竹槍
戦国時代から近代にかけて、農民の一揆や博徒の出入りなどで使われたと考えられている竹槍[15]。
- 長さは4.0m前後。重さは1.8-2.5kg。
- 先端に槍の穂先を結び付けないタイプの竹槍の場合、竹の先を単純に斜めに削いだものと、槍の穂先状に削ったものがある。
- 肉が厚く、まっすぐな青竹を用いる。
- 竹の根本側を穂先にし、穂先側が直径5cm、手元側が3cm程度が良い。
- 削いだ穂先を強固にするために油を塗って火で焙り、これを繰り返すと切り口に油が浸みて強固な穂先を作ることができる。
米陸軍の竹槍
米陸軍兵士が、手持ちの道具がほとんど何もなくなっても、どんな場所からでも生還できるように、米陸軍のサバイバルマニュアルが作り方を指導している、即席の竹槍[16]。穂先に刃を括り付けるタイプの即席の槍は木で作ることもできるが、刃を括り付けないタイプの即席の槍を作るには竹が最適とのこと。ちなみに、竹の穂先にナイフの刃を括り付けるタイプの竹槍を作る場合は、刃を単に括り付けるよりも、竹の先を半分に割って、そこに刃を差し込んで括り付けた方が良いとのこと。
- 青竹のまっすぐな部分を1.2mから1.5mくらいの長さに切り出す。
- 先端を切って刃を作る。先端から8cm-10cmくらいのところから、先端に向けて、斜め45度の角度で切り込みを入れる。
- 先端を削って鋭利にする。この際、竹は内側よりも外側の方が強度が強いので、必ず竹の筒の外側ではなく内側を削るように。
- 先端を火で焙って固くしても可。
- ^ Monjali Dilapisi 1.500 Bambu Runcing(krjogja.com 参照日:2018.5.17)
- ^ 笹間良彦『図説 日本武道事典』柏木書房。
- ^ 太田牛一『別本御代々軍記』(「太田牛一旧記」
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- ^ 呉座勇一, 2015 & Kindle版、位置No.全3065中 232-244 / 8%.
- ^ 「枢密院決議・一、刀剣銃砲槍戟仕入刀剣仕込銃竹槍棍棒ノ類携帯禁止ニ関スル件決議案・明治三十一年二月五日決議」 アジア歴史資料センター Ref.A03033947900
- ^ 愛国陣営を見る 大阪時事新報、1932年12月17日
- ^ 「東京市の大貯水池計画に地元民、必死の反対」、東京日日新聞、1934年10月13日
- ^ 「10月31日 台湾憲兵隊長より今回の事件を軍に於ては霧社事件と名付け此の用語を定せり」 アジア歴史資料センター Ref.C10050156200
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- ^ 『非常時の認識と青年の覚悟』p.38、荒木貞夫著、1934年、文明社
- ^ 『建国の肇に還れ』p.14、帝国傷痍軍人会佐賀県支部編、1936年
- ^ ファッシズムと大衆の支持、神戸又新日報、1932年5月9日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
- ^ 一例として、第二次上海事変で1937年に上海の東華紡績の工場に駐屯した輜重兵が竹槍を支給されたと記述する陣中日誌を挙げる。「陣中日誌 自昭和12年11月1日至昭和12年11月30日 輜重兵第114連隊第1中隊(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111352600
- ^ 一例として、第二次長沙作戦で1942年に現在の湖南省長沙市長沙県陰山に駐屯した衛生班がバンザイ突撃を覚悟するところまで劣勢となった「竹槍を造り覚悟する」と題する陣中日誌を挙げる。「第2次長沙作戦2 明第9029部隊(衛生隊)その2」 アジア歴史資料センター Ref.C11112099600
- ^ [証言記録 市民たちの戦争]悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~ NHK 戦争証言アーカイブス
- ^ 『実録太平洋戦争 第5巻』p.14、1960年、中央公論社
- ^ Membuat Bambu Runcing untuk Perjuangan (1945) - youtubeの映像
竹槍と同じ種類の言葉
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