稔幸
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来歴・人物
3歳よりクラシックバレエを始める。家族のすすめに従い高校卒業時に宝塚音楽学校を受験し合格。1985年、71期生として宝塚歌劇団に入団[2]。
同年、花組公演『愛あれば命は永遠に』で初舞台を踏む[1]。その後、星組に配属される。星組の先輩であった紫苑ゆうのことを永年慕っており、特にトップ就任後の稔の芸風や化粧・所作にコスチューム・プレイや貴族・偉人などの役どころを得意とした紫苑の影響が大いに反映されていた。
1999年2月から、麻路さきの退団を受け星組トップスター就任[1]。『WEST SIDE STORY』(トニー役)がお披露目となった。この時代はトップスター5人中4人が同期という時期であった(花組・愛華、月組・真琴、雪組・轟、星組・稔)[3]。
2001年、『ベルサイユのばら2001―オスカルとアンドレ編―』(オスカル役)で相手役の星奈優里と同時に退団[2]。長年に渡り「星の王子様」と親しまれていたことから、東京でのサヨナラ公演・千秋楽の楽屋入りの際、本物の白馬にまたがりオフィス街の角から登場した。公演中に右手首骨折をし振り付け等の変更があったが、退団する千秋楽までオスカル役を演じきった。
退団直後に会社員と結婚。その後は出産などでしばらく活動を控えていたが、2011年11月、『戦国シェイクスピア 其の2「ハムレット」より SHINGEN 〜風林火山落日〜』で、宝塚歌劇団退団後、初めて舞台出演を果たした。2015年1月21日発売の宝塚歌劇団OGによるカバーアルバム『麗人 REIJIN』にも参加し、徳永英明の「レイニー・ブルー」をカバーした[4]。現在はアーティストとして絵本の挿絵などで活動。また、宝塚での活動を生かし、ディナーショーやトークショー、司会業なども行う。
花柳寿楽に師事し、花柳流日本舞踊の名取を取得。名取名は「花柳楽ゆき」。日本パペットセラピー学会の理事も務めている。
実母の従姉妹に宝塚48期生(元星組娘役・当時の芸名は八千代環)で現在は歌手・歌唱指導者となった流けい子がいる。
- ^ a b c “稔幸さん、宝塚を退団/7千人のファン別れ惜しむ”. 四国新聞社. 2023年9月8日閲覧。
- ^ a b c “More about SEISEN - Vol.2-1 若月央子さん特別インタビュー①”. More about SEISEN. 清泉女学院中学高等学校. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “More about SEISEN - Vol.2-2 若月央子さん特別インタビュー②”. More about SEISEN. 清泉女学院中学高等学校. 2023年9月8日閲覧。
- ^ a b “音楽史上初 宝塚歌劇団OGによるJ-POPカバーアルバムがリリース決定”. シアターガイド. (2014年11月21日) 2014年11月25日閲覧。
- ^ “宝塚OGによるカバーアルバム第2弾発売決定 昭和の歌謡名曲が男役歴代トップスター達によって蘇る”. Billboard Japan. 2015年4月23日閲覧。
- ^ “越路吹雪37回忌、トリビュートアルバム&メモリアルコンサートに宝塚OGら”. ステージナタリー. (2016年10月26日) 2016年10月26日閲覧。
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