琵琶湖
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人間との関わり
呼称
古代の呼称
琵琶湖は元々、近淡海[注 44]・淡海・淡海の海(あふみのうみ)・水海(すいかい)・近江の海・細波(さざなみ)・鳰の海(にほのうみ)などと呼ばれていた[177][178]。
『古事記』においては、その伊邪那岐の大神は、淡海の多賀に坐すなり
(上巻)や東の方追ひ廻りて近淡海国に到り
(中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している[179][注 45]。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の
淡海の海 瀬田の済に
潜 く鳥 目にし見えねば憤りしも
という歌謡をはじめとし、淡海の海・淡海の表記が多数見られ、近淡海の用字はほとんど見られない[182]。同書における近江の表記は、天智天皇5年[注 47]に是の冬に宮都の鼠、近江に向きて移る
とあるなど、奈良時代の近江遷都以降に顕著に現れる[182]。その後の『続日本紀』の717年(養老元年)の条には行至近江国 観望淡海
とあり、近江を国名、淡海を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される[184]。
また同時期の藤原武智麻呂の伝記には、近江は宇宙の名地[……]水海清くして広し
との記述があり、これが琵琶湖を水海と表記したものの初出である[185]。さざなみの用字については、713年(和銅6年)の『近江風土記』逸文を引いた
近江の国の風土記引きて言わく、淡海の国は淡海を以ちて国の号と為す。故に一名を細波国と言ふ。目の前に湖上の漣 なみを向ひ観るが所以なり。
との文がある[186]。鳰の海については、下って平安時代の『源氏物語』は「早蕨」の巻の
しなてるや 鳰の海に 漕ぐ舟の 夏帆ならぬとも逢い見し物を
や『千載和歌集』の
我がそでの 涙や鳰の海ならん かりにも人をみるめなければ
また『新古今和歌集』の
鳰の海や 月の光のうつろへば 波の花にも秋はみえけり
—藤原家隆
などがある。琵琶湖を代表する鳥である鳰(カイツブリ)は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年(昭和40年)には滋賀県の県の鳥にも指定されている[188][189]。
中近世の呼称
琵琶湖という呼称の最も古い用例は、木村 (2001, pp. 157f.) によると、室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟の漢詩集『翰林葫盧集』の中の七言絶句「湖上八景」における
である。なお、琵琶湖を琵琶の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺の僧侶光宗が1311年から1347年(応長元年から貞和3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に
との記述がある[192]。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代の儒学者伊藤仁斎による1645年(正保2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない[193]。その後、同じく儒学者の貝原益軒が1689年(元禄2年)に若狭・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある[194]。

この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである[195]。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、
湖水を琵琶湖と名ずく[ママ]ハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖と名づく、因みて神を妙音天女と名く
とある[196]。元禄年間から享保年間にかけてはほかにも、松尾芭蕉による俳諧文や朝鮮通信使の申維翰による『海游録』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる[197]。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる[198]。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある[199]。
近現代の呼称
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明治年間には、琵琶湖汽船や琵琶湖新聞・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・琵琶湖疏水など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える[200]。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから[注 49]、ひらがな書きにしたびわ湖やびわこなどの表記も見られる[201][注 50]。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。
- Mother Lake
- 滋賀県は、2000年にマザーレイク21計画を策定するなど、琵琶湖をMother Lake(母なる湖)と呼んでおり、
母なる湖・琵琶湖。預かっているのは、滋賀県です
の文言を県の封筒に記載している[202][203]。
- 近畿の水瓶
- 琵琶湖は上述のように滋賀・京都・大阪に水を供給していることから「近畿の水瓶」などと呼ばれることもある[204][205]。しかし滋賀県側は、1995年は稲葉稔知事が「水瓶」との表現に抗議する答弁をおこなうなど、琵琶湖を「水瓶」と呼ぶ表現を避けている[204]。これは、滋賀県民にとって自県の象徴的存在である琵琶湖を、いわば単なる貯水用ダムの一種として扱われては県民感情を大きく損なうとの理由によるものである[206]。
交通
2021年現在、琵琶湖汽船・オーミマリン・沖島離島振興推進協議会が定期航路を運営している[207][208][209][210]。
先史・古代の交通

琵琶湖周辺では、縄文後期の丸木舟(鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル)が発見されており[注 51]、先史時代から湖上交通がおこなわれていたことがわかる[89][212]。弥生中期後半には丸木舟は準構造船に発展し[注 52]、古代には湖北と都を結ぶ航路が築かれていた[注 53]。『万葉集』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、帆を読んだものはほとんどなく、当時帆走は未発達であったと推測される[214]。東大寺・藤原宮・石山寺の造営においては、甲賀・高島・田上からの木材が湖上交通を利用して運搬されている[215][89][216]。
その後、平安時代に都が長岡京から平安京に遷都されると、北国・東国と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる[217]。『延喜式』巻二六主税には北陸六箇国の税は塩津や勝野(高島市大溝)から湖上路を大津に運ぶとの規定があり、東海よりの物資も中山道を経て朝妻(米原市)から同様に大津に運ばれた[218][219]。
湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述の風や波による遭難のリスクもあった[220]。高市連黒人による
わが船は比良の湊に漕ぎ泊 てむ沖へな離 りさ夜更けにけり—万葉集
という歌からは、舟旅への恐れが窺える[221]。平安時代ないし室町時代には、
という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という諺も広まった[222][220][注 55]。
中世の交通
平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山の外港坂本は、中世には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借・車借が室町時代以降大きな力を持っていく[注 56]ことにも繋がった。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である堅田[注 57]などを拠点とする東西ルートも発展していく[223][224]。また前述のように、港(津)の発展には
中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる[225][89]。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん)と呼ばれる特権を室町時代に与えられた[226][227]。湖上には坂本を中心に複数の関[注 58]も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた[228][224]。
建武3年(1336年)には足利尊氏を追った義良親王・北畠顕家が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく[229][89]。戦国時代に入ると、従来の比叡山延暦寺に加え戦国大名の浅井氏が菅浦・大浦・沖島、六角氏が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった[230]。
近世の交通
近世には、物資輸送・地場産業が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、日本海などの弁財船よりも幅が狭い丸子船(丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船が使われるようになった[231]。後述するように湖岸の田畑や集落には、ホリと呼ばれる水路が張り巡らされており、たとえば草津市志那町では、閘門を通じて田舟を琵琶湖に下ろし、浜大津まで往復することもあったと伝えられている[232]。
織田信長[注 59]は港を重視し、天正元年(1573年)に船長約54メートルの船で坂本から京都に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した[234][注 60]。豊臣政権下では、京都から大阪へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から大津に移ることになる[235][236]。豊臣秀吉により創設された大津百艘船は、大津からの積荷を独占的に扱えるなどとする特権を浅野長吉が天正15年(1587年)に下した高札により与えられた[235][237]。また天正17年ごろには、観音寺が船奉行を務めることとなった[238]。秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん)という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった[239]。豊臣政権下で築かれたこれらの体制は徳川政権下でも踏襲されることとなる[240][241]。
西廻海運の成立以降は、若狭国の小浜・敦賀から琵琶湖を経由する流通路は衰退し、湖上水運は周辺域の流通路へと変容していった[242]。このため、堅田・大津・近江八幡の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論を繰り広げるようになり[243]、その後堅田・大津・大溝・舩木・今津・海津・大浦・塩津・八幡の九ヵ浦体制が成立した[244]。大津を拠点とする観音寺が貞享2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や四日市を拠点とする幕府の官僚的代官が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている[245]。もっとも船数は大幅には減少せず[246]、江戸時代中期の享保年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる[247]。また、流通路としての地位の回復や後述の水害への対策、新田開発などを目的として、琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画が、江戸時代を通じ複数回持ち上がっている[248]。
江戸時代には幕府のほか、彦根藩も独自の船支配をおこなっていた[249]。彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、元和年間に松原・米原・長浜の彦根三湊が水運の中核として取って代わった[250]。享保年間には争論の結果、彦根三湊が大津百艘船の特権を切り崩すこととなった[249]。
近現代の交通
近代に入り明治2年(1869年)に蒸気船一番丸(5トン12馬力の木造外輪船)が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる[251][252][89]。既存の和船問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された[253]。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため(後述)、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている[254]。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた[255]。1880年(明治13年)7月には大阪 - 京都間の鉄道開通にともない長浜 - 大津間の鉄道連絡船の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する太湖汽船会社が設立されている。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には長浜 - 敦賀間および長浜 - 大垣間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した[256]。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し湖南汽船会社が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる[256]。
当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に東海道線が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった[257]。そのため後述するように、2大汽船会社は、貨客輸送から遊覧船へと営業の主力を切り替えていくことになる[258]。さらに1931年(大正15年)には江若鉄道が今津まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた[89]。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船・田船など少なくとも1万1100艘[注 61]の船が存在していた[259]。
近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と太平洋や瀬戸内海を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった田辺朔郎による昭和初期の「大琵琶湖運河計画」や、高度経済成長期の「日本横断運河構想」など複数回立てられている[260][248]。しかしモータリゼーションが進んだ結果、1964年(昭和39年)に琵琶湖大橋が、1974年(昭和49年)に近江大橋が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった[248]。
水害と治水
琵琶湖の湖岸域では、河川の氾濫のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた[261][262]。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年(大宝元年)以降多く残されている[263]。
琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、奈良時代の僧侶行基による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の掘削の試みにまで遡ることができる[262]。その後江戸時代には、幕府の普請が2回と自普請が3回、計5回の浚渫工事がおこなわれており、特に1699年(元禄12年)の「河村瑞賢の大普請」と、高島郡深溝村の庄屋藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年(天保2年)の普請が大規模なものであった[264][265]。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、あさり取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている[264]。
近代に入ってからは1890年(明治23年)以降、滋賀県内の有志が結成した琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事大越亨により、繰り返し淀川の浚渫の陳情がなされた[266]。1885年(明治18年)の淀川洪水で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した[267][268]。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また南郷洗堰が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった[267][269]。これらの工事以前には、プラス3.76メートルにまで水位が上昇し琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水した1896年(明治29年)の洪水をはじめとし、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた[270]。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に瀬田川洗堰が築造されている[271][49]。
水利用
滋賀での水利用
前述のとおり、琵琶湖湖岸域では弥生時代ごろから稲作がおこなわれていた。田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、昭和中ごろまで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や井戸の水を利用してきた[272]。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく、また扇状地であるため伏流水化しやすい地形が多く、甲良町など農業用水の確保に問題を抱える地域も多かった[272][273]。
琵琶湖に隣接する湿地帯においては、傾斜が緩いため通常の灌漑が困難であったが[274]、琵琶湖や
昭和30年代ごろには上水道の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる[282]。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている[283][284]。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、パイプラインで農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した[283]。牧野厚史 (2001, pp. 205–206) は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と水循環の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、八幡堀の保存活動などは、単なる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。
淀川下流域での水利用
京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた1912年(明治45年)のことである[285]。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している[12]。琵琶湖疏水の建設は東京遷都によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で京都府知事の北垣国道が先導した[286][287]。当時、京都では鴨川に源流を持つ京都盆地の水系を賀茂別雷神社(上賀茂神社)が支配し、御所の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた[288]。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった[289]。琵琶湖疏水を介して毎秒24立方メートル(2017年時点)[290]を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ)[291]を琵琶湖に頼る京都市は、1914年(大正3年)以来京都市民の感謝の気持ちとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている[292][293][注 63]。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている[294][295]。
大阪では1895年(明治28年)に淀川を水源とする本格給水が始まった[285]。第二次世界大戦後の高度経済成長期に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった[296][297]。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。琵琶湖総合開発事業を策定した[297]。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し内閣総理大臣がこれを決定する形がとられた[298]。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した[299]。規則では、洪水時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち渇水に備えることを基本とし[299]、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている[296]。また、増大する水の需要に1991年(平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる水利権)で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた[300][301]。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある[296][注 64]。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった[302]。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった[298][301][303]。
琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「琵琶湖の水止めたろか」というジョークがしばしば用いられる[304][271]。野田 (2001, p. 232) は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。
天然ガスの利用
琵琶湖の湖岸一帯では天然ガスが湧出している場所があり、古くは湖北(現在の高島市)において農家が燃料として使用する例も見られた。湖南では1883年夏、栗太郡常盤村(現在の草津市)において住民が井戸を掘った際に、地下水に溶け込んでいる天然ガスの存在に気が付かず、水にカンテラを近づけて火柱を作った逸話も残る[305]。燃料事情が逼迫した1941年には、大津市が大阪鉱山監督局に栗太郡瀬田町(現在の大津市)で石油(メタンガス)の試掘申請を行っている[306]。
漁撈と食文化
前述のとおり、琵琶湖には多様な魚介類が生息しており、漁場の環境も岩場・砂浜・

固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている。淡水魚の生食を忌避する日本においては珍しく、ビワマス・イワトコナマズ・ニゴロブナやゲンゴロウブナ・ハスなどは造りとしても食される[311]。このほか「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼き・寄せ鍋や焼き物、佃煮などとしても食される[312]。また、滋賀県では発酵食品が発展しており、鮒寿司をはじめとするなれずしも作られる[313][314]。滋賀県には、海産物を扱う鮮魚店とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮・なれずしといった加工品や鴨なども扱われている[315]。
漁撈の歴史
琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる[316]。前述したように、縄文時代の遺跡からは、貝殻や魚の骨などが発見されており、タンパク源に占める琵琶湖産の魚介類(特にコイ科)の比率は哺乳類よりも高かったと考えられている[87][317][318]。また、漁網用と推測される石錘・土錘も出土しており[319]、漁具とともに出土した丸木舟も漁労に用いられたと推定される[216]。稲作が開始された弥生時代には、魚類が水田を産卵場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり魞(エリ)や筌といった小型陥穽漁具による待ちの漁法が発達し[注 65]、タンパク源に占める魚介類の比率はさらに高まった[320][321][322]。古墳時代には土錘が増加・多様化し、また麻網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる[323]。
その後中世ごろには網漁が発達しており、従来河川や
近世の17世紀ごろには、淡水魚である鯉から海水魚である鯛に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀から19世紀にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる[327][注 66]。明治以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、大正・昭和期には、テナガエビとワカサギが移入され、漁獲対象種に加わった[328]。また、大正末ごろには
景勝・観光地として
飛鳥時代の近江遷都以降、後述のように近江を舞台とした歌が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる[335]。近江八景[注 67]は、当初は文学的モチーフであったが、江戸時代中ごろには街道を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『名所図会』といった挿絵入りの旅行案内書や浮世絵などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった[336][337]。
1889年(明治22年)の東海道線全線開通は、前述の鉄道連絡船の廃止に繋がり汽船会社の経営に打撃を与えたが、同時に京阪神から琵琶湖観光に気軽に訪れることを可能にもした[338]。湖南汽船は1894年(明治27年)に大津と石山および坂本間の航路で湖上観光の営業を開始している。次いで太湖汽船も南湖 - 北湖間の航路運行を開始し、1895年(明治28年)には鉄道連絡船廃止時点のレベルまで業績を回復させるに至っている[44]。本格的な湖上遊覧の嚆矢ともされる湖南汽船の「近江八景めぐり遊覧船」(1903年〈明治36年〉就航)に続き、太湖汽船も遊覧観光船の建造を行うなどより湖上遊覧に力を入れることとなり、以降季節ごとの観光客誘致が展開された[339][340]。1912年(大正元年)には京津電車の三条 - 札ノ辻間が開通し、京都方面からの観光客はさらに増加、2大汽船会社の競争もより激しく展開された。この時期には竹生島や長命寺への巡礼を含む観光が定着している[44]。昭和に入ると琵琶湖ホテルの建設や湖水浴場の整備も進められ[339]、太湖汽船と京阪電鉄によるマキノ・スキー場開設の翌年にあたる1930年(昭和5年)から1962年(昭和37年)にかけては、スキー客運ぶスキー船も運行された[341]。
第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には琵琶湖が国定公園に指定されている。これに先駆け前年には、滋賀県民からの公募によって「琵琶湖八景」が選ばれ[339][342]、翌1951年には観光船玻璃丸が就航した[341]。1968年(昭和43年)のびわこ大博覧会以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、びわこ国体で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる。1982年(昭和57年)には玻璃丸を継ぐかたちで外輪船ミシガンが就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、バブル経済の崩壊により計画は進まなかった[339][343]。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた新しい観光スタイルが模索されている[339]。2019年(令和元年)には琵琶湖岸を1周する200キロメートルの自転車ルートであるビワイチが、ナショナルサイクルルートの第1弾[注 68]として指定された[344][345]。
作品の題材として
和歌
前述のとおり、記紀にはいくつか琵琶湖を題材とした歌謡が含まれている。その後の『万葉集』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、近江国を舞台とする歌は近江遷都以降のものが多い[346]。同歌集には柿本人麿の
など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた歌が14首ある[348][178][注 70]。また、湖や志賀にかかる枕詞「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による
という歌が特に著名である[349]。湖岸の湊を詠んだ歌も多く、小弁[注 72]による
などが挙げられる[216][351]。飛鳥時代の湖上の賑わいを示す歌としては、
などが挙げられる。一方、都落ち間近に平忠度が詠んだ
は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには渺々とした琵琶湖の風景
が表れている[186][353]。平安時代の人の往来を示す歌としては、長徳2年(996年)に父藤原為時の越前武生への赴任に同行した紫式部が高島町三尾崎で詠んだ
—紫式部集
が挙げられる[354]。
その他文学
菅原孝標女による『更級日記』や鎌倉時代の阿仏尼による『十六夜日記』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては竹生島信仰が、『平家物語』や謡曲『竹生島』などの作品で取り上げられている[356][357]。戦乱の世になると、謡曲『自然居士』や室町時代の小唄を集めた『閑吟集』において琵琶湖の人買舟や密漁といった荒々しい様相
が描写されるようになるが、一方軍記物においては『義経記』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない[358][353]。江戸時代については、松尾芭蕉による
四方より花吹き入れて鳰の海
などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの俳句と『幻住庵記』、そして上田秋成による夢物語「夢応の鯉魚」(『雨月物語』)が傑作として挙げられる[359][360]。
近現代に琵琶湖に関連する小説としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地)[361]。
室町時代を描いた谷崎潤一郎『盲目物語』は、湖上の描写は少ないものの、作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており
[362]、秦恒平『みごもりの湖』では藤原仲麻呂の乱の、成澤邦正『琵琶湖の浮城』では室町末期水茎の岡の湖上の戦が描かれている[358]。琵琶湖の汚染や自然破壊を扱った作品としては、早くは1919年(大正8年)の近松秋江『湖光島影』があり、第二次世界大戦後の高度経済成長期には西口克己『びわ湖』が発表されている[363]。また、中上健次『日輪の翼』や平成の小林恭二『カブキの日』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は堅田)を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、松村 (2001, p. 268) は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。
美術
琵琶湖が描かれた現存最古の絵画は、おそらく『源氏物語絵巻』の「関屋」の段である[364]。高梨 (2001, pp. 269f.) は、これ以前の『一遍聖絵』や鶏足寺の十二神将像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。室町時代後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の狩野派による屏風絵[注 76]、同じく室町時代の大徳寺瑞峯院の『堅田図旧襖絵』[注 77]、17世紀前半(江戸時代)の屏風絵[注 78]などが挙げられる[366][365][368]。17世紀後半以降には、近江八景を題材とした絵画(歌川広重によるものが有名)や着物の蒔絵・陶磁器の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている。近代以降は、多くの洋画家・日本画家が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、今村紫紅や下保昭などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている[369]。
音楽と映画
1917年(大正6年)に作られた『琵琶湖周航の歌』は、滋賀県民に広く愛唱されている[370]。そのほか、後述の琵琶湖遭難事故を歌った『琵琶湖哀歌』がある[130]。
琵琶湖を舞台とした映画としては、『幻の湖』[注 79]、『偉大なる、しゅららぼん』[注 80]、『マザーレイク』などが挙げられる。
環境保全
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昭和40年代、高度経済成長に伴って湖水の水質汚濁や富栄養化が進んだ[371]。原因の一つに合成洗剤、リン酸塩が挙げられ[372]、主婦層や女性団体が「石鹸運動」を起こして対策・改善を求めた[373]。このため滋賀県は独自に工業排水と生活排水を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った[374][375][376]。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』や『滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例』、景観を守るための『ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例』などがある。
滋賀県は7月1日を「びわ湖の日」に定めており、琵琶湖を保全する様々な活動「びわ活」を推進している[205]。また、2021年時点、国際連合持続可能な開発目標(SDGs)に倣い、2030年に向けた琵琶湖版SDGsである『マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ"』策定を進めている[377]。
1990年から1991年にかけ琵琶湖総合開発事業の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市唐崎沖1.5キロメートル)と北湖湖心局(大津市南比良沖4キロメートル及び高島市今津沖3.5キロメートル)の3基が設置され、pH値、溶存酸素量、水温、流速などのデータが自動送信されていた[378]。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった[378]。
また、琵琶湖の北方に位置する福井県若狭湾岸には、敦賀原発・美浜原発など多数の原発が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、原発事故で放射能汚染されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている[379]。また、ヨシ群落保全条約により、水鳥にとって重要なヨシ群落保全が図られている。ラムサール条約湿地を指定するための国際的な基準の一つに、「定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地」とあり、琵琶湖はその基準を満たしている。そのことから、1993年6月10日、北海道釧路市で開催された「ラムサール条約第5回締約会議」において、国内で9番目のラムサール条約湿地となった。琵琶湖がラムサール条約に登録されたことを受け、水鳥をはじめとする野生生物と、湿地の保全や湿原の賢明な利用について理解を深めるための普及啓発活動や、調査・研究・監視等を行う拠点施設として「琵琶湖水鳥・湿地センター」ができた。ラムサール条約に指定されたことで、滋賀県全体で、琵琶湖の自然環境への取り組みが強化された[要出典]。
事件や事故
滋賀県内の水難事故の3分の1が大津市消防局管内で発生している。大津市消防局が2015年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9パーセントであり全国平均の4.4パーセントの2倍以上となっている[380]。前述したおろしなどの風は、漁船やウィンドサーフィンの事故の原因となることも多く、1941年(昭和16年)には琵琶湖遭難事故が発生している[129][注 81]。
先に触れた近代における蒸気船の事故としては、まず1874年(明治7年)に長運丸が唐崎沖でボイラーの破裂により沈没し、数十名の乗客が犠牲となっている。その翌年には、満芽丸(大津所属)が加重積載により小松沖で沈没し、47人の犠牲者を出した[382]。
このほか、太平洋戦争の終戦間際に零式艦上戦闘機(零戦)六二型が琵琶湖に不時着している[383]。1978年(昭和53年)、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ京都嵐山美術館が修復、その後は和歌山県「ゼロパーク」、広島県「大和ミュージアム」と引き渡され、展示された[384]。
その他
- 日本遺産
- 2015年には、「水とくらしの文化」「水と祈りの文化」「水と食文化」の3つのストーリーで構成された「琵琶湖とその水辺景観 — 祈りと暮らしの水遺産」が文化庁により日本遺産として認定されている[385][386]。
- スポーツやレジャー
- 瀬田川を中心とし複数の艇庫があり、毎年5月には琵琶湖漕艇場で日本最大級のボート大会である朝日レガッタが開催される[387]。1952年にはびわこボートレース場が日本で3番目のボートレース場として開場している[388]。カヌーやドラゴンボート、ソーラーボートの競技もおこなわれるほか、ヨット、スタンドアップパドルボードなどを楽しむこともできる[387]。また、2003年には「琵琶湖レジャー利用適正化基本計画」が策定されている[389]。
- 教育
- 滋賀県では、1983年の学習船「うみのこ」就航以降、県内の小学5年生を対象とし、びわ湖フローティングスクールと呼ばれる1泊2日の体験学習を実施している[390][391]。また1981年以降、環境教育副読本『あおいびわ湖』(小学校)・『あおい琵琶湖』(中学校)・『琵琶湖と自然』(高校)を、ほぼ5年ごとに改訂を加えながら発行している[392][393]。
- 研究機関
- 琵琶湖に関連する研究機関としては、滋賀県琵琶湖環境科学研究センター・滋賀県立琵琶湖博物館・国立環境研究所琵琶湖分室などがあり、2014年には各部局・機関が連携して研究をおこなうために琵琶湖環境研究推進機構が設置された[394]。
年表
※文末の「#」は、関連する節へのページ内リンクである。
- 440万年前ごろ – 後の三重県伊賀市に古琵琶湖が形成される(大山田湖)[64]。#
- 100万年前ごろ - 現在の南湖の位置に堅田湖が形成される[70]。#
- 43万年前ごろ - 琵琶湖の移動が終わる[70]。#
- 紀元前1万年ごろ - 湖岸域での人の営みの痕跡が残され始める[87][395]。#
- 紀元前300年ごろ - 湖岸域で稲作が開始される[395]。#
- 667年(天智天皇6年)- 近江大津宮への遷都[396]。
- 700年ごろ - 僧侶行基が琵琶湖治水のため大日山の掘削を試みる[262][396]。#
- 1587年(天正15年)- 大津百艘船が特権を与えられる。この数年後には観音寺が船奉行に任命される[397]。#
- 1699年(元禄12年)- 河村瑞賢による2度目の瀬田川浚渫(河合瑞賢の大普請)[398][399]。#
- 1831年(天保2年)- 深溝村の庄屋藤原太郎兵衛家の尽力の末瀬田川の浚渫が実現[400][401]。#
- 1869年(明治2年)- 蒸気船一番丸が就航[89]。#
- 1890年(明治23年)- 京都市へ水を供給する琵琶湖第1疏水が開通[12][402]。#
- 1896年(明治29年)- 河川法が制定され、以降琵琶湖とその流入河川は行政の管理下に置かれる[267]。#
- 1896年(明示29年)- 琵琶湖沿岸部で大洪水が起きる[403][402]。#
- 1900年から1908年(明治33年から41年)- 南郷洗堰の築造を含む瀬田川の大規模な改修工事がおこなわれ、以降琵琶湖の水害は減る[267]。#
- 1912年(明治45年)- 琵琶湖第2疏水が開通[285][404]。#
- 1925年(大正14年)- 琵琶湖の環流が発見される[106]。#
- 1950年(昭和25年)7月24日 - 琵琶湖国定公園が指定される[405][342]。#
- 昭和30年代 - 滋賀県で上下水道の普及が始まる[272]。#
- 1961年(昭和36年)- 瀬田川洗堰が築造される[406]。#
- 1964年(昭和39年)9月 - 琵琶湖大橋が開通[405]。#
- 1970年代 - 以降、大型ポンプとパイプラインを用いた逆水灌漑が拡大する[283]。#
- 1972年(昭和47年)- 琵琶湖総合開発特別措置法の制定に伴い琵琶湖総合開発事業が策定される[297]。#
- 1974年(昭和49年)9月 - 近江大橋が開通。#
- 1979年(昭和55年)10月 - 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が公布される[405]。#
- 1985年(昭和60年)12月 - 湖沼法における指定湖沼に指定される[405]。
- 1993年(平成5年)- ラムサール条約登録湿地に認定される[389]。
- 2000年(平成12年)3月 – 「マザーレイク21計画」が策定される[202]。
年間行事・記念日
主な生物種
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※『滋賀県レッドデータブック』2015年版に基づき、希少(亜)種には「*」を、絶滅危機増大(亜)種には「**」を、絶滅危惧(亜)種には「***」を附す[412] また、環境省レッドリスト2020年版に基づき、絶滅危惧IB類およびI類には「⁑」を、IA類には「⁂」を附す[413]。琵琶湖においては絶滅したとされる種には「†」を附す。
動物
- 魚類
- 貝類[135]
- 固有(亜)種
- 二枚貝綱イシガイ目イシガイ科
- 二枚貝綱ハマグリ目シジミ科
- セタシジミ**(シジミ属)
- 二枚貝綱ハマグリ目ドブシジミ科
- カワムラマメシジミ(マメシジミ属)
- 腹足綱吸腔目カワニナ科
- イボカワニナ*
- オオウラカワニナ***
- カゴメカワニナ
- クロカワニナ**
- シライシカワニナ*
- タケシマカワニナ*
- タテジワカワニナ***
- タテヒダカワニナ
- ナカセコカワニナ**⁑
- ナンゴウカワニナ**
- ハベカワニナ
- フトマキカワニナ***
- ホソマキカワニナ*
- モリカワニナ*
- ヤマトカワニナ(以上カワニナ属)
- 腹足綱吸腔目タニシ科
- 腹足綱吸腔目ミズシタダミ科
- ビワコミズシタダミ(ミズシタダミ属)
- 腹足綱有肺目ヒラマキガイ科
- カドヒラマキガイ
- ヒロクチヒラマキガイ(以上ヒラマキガイ属)
- 腹足綱有肺目モノアラガイ科
- オウミガイ(モノアラガイ属)
- 固有(亜)種
- 節足動物
- 鳥類[427]
- その他動物
植物
その他
主な港
- 古代[注 92]
- 中世[441]
- 近世[注 92]
近世の主な港。 は九ヵ浦、
は彦根三湊。
- 近代[443]
- 長浜市
- 塩津
- 片山
- 南浜
- 長浜
- 竹生島
- 彦根市
- 松原
- 柳川
- 近江八幡市
- 常楽寺
- 長命寺
- 八幡
- 沖ノ島
- 草津市
- 志那
- 穴村
- 山田
- 矢橋
- 大津市
- 高島市
- 大溝
- 船木
- 深溝
- 今津
- 海津
- その他
- 長浜市
- 現代
現代の主な港。 は地方港湾、
は第一種漁港。
- 長浜市
- 彦根市
- 草津市
- 大津市
- 高島市
- その他
- ^ 第2位の支笏湖は、面積は78.7平方キロメートルと小さいが、最大水深が大きいため209億トンの貯水量をもつ[6]。
- ^ これは海水面の約マイナス18メートルにあたる[7]。
- ^ 中央と烏丸半島付近の土砂の厚さが同じなのは偶然である[21]。
- ^ 生物群系の境界など、異なる環境が接し連続的に入り交じる場所を指す生態学の用語。生物学の多様性が高い[24][25]。エコトーン、移行帯とも[25][26]。
- ^ 2018年ごろの人工湖岸の割合は37パーセント(南湖では73パーセント)である[29]。
- ^ 管理は滋賀県と水資源機構が行う。
- ^ 人工
内湖 を加えると、2018年現在5.3平方キロメートルである[35]。 - ^ 木村 (2001, p. 133) は、これに沖の白石を加え4島としている。
- ^ 戦国時代まで[43]とも第二次世界大戦後の大中の湖の干拓まで[44][45][46]ともされる。
- ^ 例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:「行政代執行の実施結果について」
- ^ 大津市春嵐一丁目字南1030番1地先を右岸、大津市玉野浦字高砂2189番2地先を左岸とする[57]。
- ^ 古代湖は世界に20ほどあり[63]、Kiprop (2017) によると、琵琶湖はそのうち5番目に古い湖である。
- ^ この年代は、古琵琶湖層群の火山灰層の研究により明らかになったもので、以前は500万年前や600万年前とされることもあったが、この研究をおこなった里口保文へのインタビューによると、今後約400万年前との推定が覆される可能性はきわめて低いという[64][65]。
- ^ 津付近に存在した東海湖と一体化した大きな湖だったとする仮説もある[67]。
- ^ 里口 (2018b, p. 85) は、魚種の連続性の観点などから、この時代にも湖があった可能性についても研究を進める必要があると述べている。
- ^ このころ、瀬戸内海や大阪湾はまだ形成されていない[73]。
- ^ 水系が分断される以前、175万年ほど前の洪水では、岐阜の火山灰が滋賀・京都・大阪を通り淡路島まで流されている[75]。
- ^ 琵琶湖が現在でもすこしずつ北上・沈降していると紹介されることもあるが、地震によって地盤が上下することはあるものの、「年間3センチメートルで動いている」といった説明は誤りである[78][79]。
- ^ これらの湖底遺跡のうち遺構を含むものについては、水位の変動、あるいは地滑りや地震などによる地盤変動により湖底に沈んだものと断定できるが、遺物のみの遺跡の場合は、儀式や遺棄により湖底に沈められた可能性も考慮する必要がある[84]。
- ^
内湖 を含まない本湖のみの面積。 - ^ 大戸川なども琵琶湖の水とともに滋賀県から流出しており、これらの集水域を合わせると滋賀県の98%を占めることになる[101]
- ^ この北向きの逆流により、汚染された南湖の湖水が北湖に流入することが懸念されている[105]。
- ^ 湖沼技術研究会 (2007, p. 222) によると、南湖でも反時計回りの環流が確認されたことがある。
- ^ 2005年には冬の環流も観測されている[106]。
- ^ 5種類とする場合の周期はそれぞれ、240.9分、71.9分、65.0分、39.8分、32.3分[116]。
- ^ 南湖は北湖に比して水深が浅いため、冷却が早い[119]。
- ^ 「湖沼#湖沼の温度」および「湖水層」も参照。
- ^ 翌2021年については、2月2日に観測が発表された[121]
- ^ 2007年3月15日に海津大崎付近の水深80メートルの地点で16.8メートルの透明度が観測された。なお、この観測は定期観測ではない[124]。
- ^ 琵琶湖西岸断層帯は東北-南西方向に延び[125][要ページ番号]、断層帯北部の最新活動時期は約2800年前から約2400年前ごろとされ、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に2mから5m程度隆起した可能性がある。断層帯南部の最新活動時期は1185年(元暦2年)の文治地震であった可能性があり、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に6mから8m程度隆起した可能性があるとされている[126]。
- ^ 亜種・変種を含む[134]。ナガタニシ属(タニシ科)とオグラヌマガイ属(イシガイ科)は水系の固有属[134][135]。
- ^ この用語としての導入は、意図性を問わず人の行為によって生物を自然分布外の自然環境に放つことをいう[145]。
- ^ 詳細は「アユ#コアユ」を参照。
- ^ 琵琶湖のアユに随伴して侵入したと想定される国内外来魚には、ここに挙げたハスとオイカワの他に、カワムツ、ビワヒガイ、ワタカ、スゴモロコ、ギギ、オウミヨシノボリなどがあり10種を超えるという[148]。
- ^ 琵琶湖における絶滅[152]。環境省レッドリストにおいては、ガシャモクが絶滅危惧IA類、リュウノヒゲモが準絶滅危惧種に分類されている[153]。
- ^ コカナダモの大繁殖は富栄養化の時期と一致し、水質悪化の代名詞のように扱われることもあるが、実際は水質が良好な北湖北部の深水域が主な生育地であり、流れ藻をうまく除去することができれば栄養塩の除去につなげることも可能である[155]。
- ^ 2014年の調査では、在来種のセンニンモが最も多く、次いでコカナダモ・クロモ(在来種)・オオカナダモという順であった[157]。
- ^ 野生生物調査協会 & Envision環境保全事務所 (n.d.) の統一カテゴリにおいては、滋賀県では絶滅危惧I類とされている。
- ^ ヨシ・ツルヨシ・セイタカヨシの3種が生育している[160]。本記事においては、漢字で葦と書いた場合この3種を区別せず指すものとする。
- ^ 滋賀県のレッドデータブックでは絶滅危機増大種に指定されている[165]。
- ^ カブトミジンコはケンミジンコやノロなど大型ミジンコにも捕食される[168]。
- ^ 単純に水質改善のためにミジンコを増やせばよいというわけではなく、魚類なども含めた食物連鎖の均衡を考慮する必要がある[171][170]。
- ^ 繊毛虫門少毛綱[訳語疑問点]コレオトリカ目ストロビリディウム科[172]。
- ^ これに対し、浜名湖のことを遠淡海と呼んだ[176]。
- ^ 以下「呼称」節の引用文中の強調はすべて引用者による。
- ^ 吾君:私の主君の意[180]。
- ^ これは、近江の表記が公的に国名と定められたと考えられている704年(大宝4年)の、約40年前である[183]。
- ^ ゆうせいが。中国文人は絵画を「無声詩」、詩文を「有声画」と呼んだ[190][191]。
- ^ 「琵」「琶」は当用漢字・常用漢字外の漢字である[要出典]。
- ^ 「タイトルに「"びわ湖"」を含むページの一覧」および「タイトルに「"びわこ"」を含むページの一覧」も参照。かつては「びわ町」という自治体も存在した。
- ^ 元水茎内湖干拓遺跡(琵琶湖の丸木舟は、鳥浜遺跡(福井県三方郡)や加茂遺跡(千葉県旧丸山町)の縄文早期のものに次いで古く、2001年時点での縄文後期 - 晩期の丸木舟の出土例は4箇所計21艘に及び、これは日本最多である[90]。太田 (2012, p. 10) によると、元水茎内湖干拓遺跡(近江八幡市)から7隻、長命寺湖底遺跡(同市)から1隻、松原内湖遺跡(彦根市)から10隻、尾上浜遺跡(長浜市湖北町)から1隻出土例があり、高田遺跡・鴨田遺跡(長浜市)からも丸木船やその破片の出土例がある。また、滋賀里遺跡(大津市)や元水茎内湖干拓遺跡からは櫂も出土している[211]。
- ^ 日本における船舶の発展については「和船」も参照。
- ^ 大中の湖南遺跡(安土町下富浦)からは飛鳥時代から奈良時代の港湾施設の遺構が発見されている[213]。
- ^ 画像は西村中和『木曽路名所図会』巻一坤、秋里籬島編、西村吉兵衛(京都)刊、文化2年(1805年)より。
- ^ 小学館 (n.d.a)は、歌に諺が由来するのではなく、すでに広まっていた諺を歌に詠み込んだものと推測している。
- ^ 「馬借」「土一揆」を参照。
- ^ 堅田渡については、平安時代の記録も残されている[223]。
- ^ 坂本七ヶ関(本籍・導撫関・講堂関・横川関・中堂関・合関・西塔関)・堅田・奥島・船木(安曇川)・船木(近江八幡)・沖島などが挙げられる[228][224]。
- ^ 信長が築いた坂本城・長浜城・大溝城・安土城は、いずれも水城である[233]。
- ^ 中井均は「みずうみの城郭網」において、信長が交通の要所に安土城・長浜城・坂本城・大溝城を築き、琵琶湖を取り囲むことで琵琶湖水運を掌握しようとしたとの説を唱えているが、杉江 (2011, pp. 24–45) は実証性の不足などを指摘し否定的な見解を示している。織田信長の琵琶湖支配の独自性に否定的で、豊臣秀吉による琵琶湖舟運の再編を高く評価する杉江の主張について、太田 (2012, pp. 14f.) は戦国大名との比較すると信長の琵琶湖舟運との関わりの積極性は否定できないとし、
信長への過大評価への警鐘として理解すべきであろう
と評価している。 - ^ この内12パーセントは内陸部の船である。
- ^ ホリは田舟の通路や炊事の場としても利用され、小魚や肥料用の土なども提供していた[277]。
- ^ 契約は10年ごとに更新され、2015年(平成27年)の更新では三日月知事と水田雅博京都市公営企業管理者上下水道局長とで年間2億3千万円の契約を締結した(1千万円増額)[293][294]。
- ^ 水利権の拡大によって、例えば1994年(平成6年)夏の全国的な渇水によって阪神地区が大きな影響を受けることはなかった[300]。
- ^ 山根 (2017, p. 20) は、魞や梁による待ちの漁法が縄文時代からおこなわれていた可能性について言及している。
- ^ このことから橋本 (2001, p. 250) は、現代の20世紀末にキャッチ・アンド・リリースを原則とした食慾には基づかない「漁撈」が主流となるまでは、漁撈の基本的な枠組みは17世紀ごろから変化しなかったのではないかと推察している。
- ^ 近江八景の成立には諸説あり、室町時代ごろに漢詩に読まれる中で定着したものとも、江戸時代初期に近衛信尹が瀟湘八景に倣って選定した(近衛政家・近衛尚通が選定したとの説は、高梨 (2001, p. 273) によると、2001年現在では否定されている)ともされる[336][337]。
- ^ つくば霞ヶ浦りんりんロード、しまなみ海道サイクリングロードと同時[344]。
- ^ しのに:しおれての意[178][347]。
- ^ 近江国を舞台とした歌は116首と大和国・摂津国に次いで多く、そのうち近江・淡海の用字を含む歌は36首である[348]。
- ^ 大曲:大きな湾・入り江の意[349][350]。
- ^ 小弁(しょうべん、生没年不詳)。飛鳥時代・奈良時代の歌人。春日倉老の子とされることもある。
- ^ 字義通り80という意味ではなく、沢山の意である[352]。
- ^ 昔ながらと長等山の掛詞[353]。
- ^ 手間:動作の手を休める合間の意[354][355]。
- ^ 2021年現在、滋賀県立近代美術館所蔵[365]。
- ^ 後に屏風に改装され、静嘉堂文庫に伝えられた[366]。
- ^ 2021年現在、サントリー美術館所蔵[367]。
- ^ 琵琶湖周辺で1年2月に及ぶ長期ロケが行なわれた日本映画。琵琶湖大橋でクライマックスを迎える。
- ^ 万城目学の小説及び2014年春公開の映画。琵琶湖の神から力を授けられた湖の民の話。
- ^ 湖上以外でも、JR湖西線では貨物列車の転覆が2001年までに2回起こっており、列車の不通や徐行運転の原因にもなっている[381]。
- ^ a b 独立種と見做さない研究者もいる[415]。
- ^ a b c d 亜種。
- ^ a b c d e f g h 2013年に安土城考古博物館がおこなった湖魚料理の人気アンケートを元に滋賀県ミュージアム活性化推進委員会が選定した琵琶湖八珍に含まれる種(ビワヨシノボリはゴリとして、アユはコアユとして選定)[416][417]。
- ^ Nelson (2007, p. 195) はキュウリウオ目キュウリウオ科と分類し、その下アユ亜科を置く。
- ^ a b c 特定指定外来生物[418]。『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』においてキャッチ・アンド・リリースが禁止されている種[419]。
- ^ a b 固有属[134]。
- ^ 通称「ビワコムシ」[424]。
- ^ a b c d e f g h i j k 2015 - 2017年のいずれかの年にラムサール条約の1パーセント基準を超えた種[428]。
- ^ 珪藻植物門の分類は鈴木 & 南雲 (2013) に基づく。
- ^ 以前別種とされていたスズキケイソウモドキは、2018年現在同一種とされている[439]。
- ^ a b 2001年以降に合併した市町は、滋賀県 (2018a)に基づいて2018年現在の市に分類した。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 木村 (2001, p. 54) において
歌集に詠みこまれた湊・浦
として挙げられているもの。 - ^ a b c d e f g h i 九ヵ浦[442]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 木村 (2001, p. 67) において
前述の古代の港以外のおもな港
として挙げられているもの。 - ^ a b c 彦根三湊[250]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 第一種漁港[444]
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