火薬陰謀事件
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余波・影響
1604年当時、そもそもローマ・カトリック教徒が自由に礼拝できるようになることは考えにくいことであったが、このような広範囲にわたる陰謀の発見と関係者の逮捕・裁判を経て、議会は新たな反カトリック法を導入することになった。こうした対カトリック政策の変更はスペインの希望を打ち砕くものでもあった[180]。 1606年の夏、国教忌避者に対する法律が強化された。「Popish Recusants Act」は、エリザベス朝時代の罰金と規制を復活させ、聖餐式のテストと忠誠の宣誓(至上権承認の宣誓)を導入し[181]、また、カトリック教徒たちに「ローマ教皇に破門された君主は退位または暗殺されるべき」という教義を破棄するように求めるものであった[13]。 カトリックが自由になるのは、それからさらに200年掛かったが、ジェームズ1世の時代においては、重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍していた[182]。 確かにガーネット神父が期待していたようなカトリックに対する「寛容」のある「黄金時代」は到来しなかったが、ジェームズの治世下は比較的カトリックに寛容な時代であり、告発される者はほとんどいなかった[183]。
劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、『ヘンリー四世』シリーズの劇中で、ノーサンバランド伯一族の歴史を参照しており、火薬陰謀事件もまた、1600年のガウリー陰謀事件と共に、1603年から1607年の間に書かれた『マクベス』の中で参照されていたようである[184]。 火薬陰謀事件によって、悪魔に対する関心が高まった。国王は、スコットランドだけでなくイングランド王になる前の1599年に『デモノロジー』を執筆し、異世界の力に関する大論争に参加していた[185]。 この事件に影響を受けた他の作家としてはジョン・ミルトンがいる。彼は1626年に、ある解説者が「批評するに厄介な詩(critically vexing poem)」と呼ぶ『In Quintum Novembris』を書いている。この詩は「イギリスとプロテスタントの祝祭日に対する党派的な国民感情」を反映したものであり[186]、1645年と1673年に出版された版では、この詩の前に火薬陰謀事件をテーマにした5つのエピグラムが掲載されており、これはミルトンが大作の準備のために書いたと推測されている[187] 。この事件は後の彼の代表作『失楽園』にも影響を与えた可能性がある[188]。
that could swear in both the scales against either scale;
who committed treason enough for God's sake,
yet could not equivocate to heaven
火薬陰謀事件は、特別な説教や、教会の鐘を鳴らすなどの公的行為によって何年も記念された。これは17世紀イングランドの国家的・宗教的生活に影響を与えたプロテスタントの祝賀行事として、より大きなものとなっていき[189]、今日の「ガイ・フォークス・ナイト」へと発展した。 歴史家のロナルド・ハットンは、『もし火薬陰謀が成功していたら?(What If the Gunpowder Plot Had Succeeded?)』の中で、陰謀が成功して貴族院とその関係者たちが抹殺された場合の後のことを考察している。 それによればハットンは、疑わしいカトリック教徒に対する激しい反発が起こり、外国からの援助がなければ反乱の成功はありえないだろうと結論付けた。宗派の違いはあってもイングランド人の多くは君主制には忠実であった。結果、議会改革や市民改革の道を歩まず、「17世紀のスウェーデン、デンマーク、ザクセン、プロイセンのようなピューリタン的な絶対王政」になっていた可能性がある[190]。
セシル黒幕説
当時の多くの人々は、国王秘書長官ロバート・セシルが国王の寵愛を受けること、かつ、より強固な反カトリック法を制定するために陰謀に関与していたと疑っていた。 このような陰謀論は、セシルが実際の計画の首謀者、あるいは自分の手下を計画に参加させておき、プロパガンダのために計画の準備が進むことを黙認していたというものである[183]。 1678年のカトリック陰謀事件では、再び火薬陰謀事件への関心が高まり、これに対してリンカーン司教のトマス・バロウが「事件がすべてセシル長官の策略という大胆だが根拠のない憶測」に反論した本を出版した[191]。
1897年、ストニーハースト大学より、火薬陰謀事件で逮捕を免れたジョン・ジェラード神父の名前を名乗る著者の『火薬陰謀とは何だったのか(What was the Gunpowder Plot?)』という本が発表され、この中ではセシルが黒幕だと主張されていた[192]。 この主張はその年の内にサミュエル・ガーディナーの反論を受けた。ガーディナーは、何世代にもわたってイングランドのカトリック教徒たちを圧迫してきた火薬陰謀事件を「拭い去ろう」とするジェラードの行為は行き過ぎだと非難した。 ガーディナーはセシルの罪は単なる機会主義者に過ぎないとした[193]。 1969年にフランシス・エドワーズが発表した『ガイ・フォークス:火薬陰謀の真相』など、セシルが陰謀に関与していたことを証明する試みは続けられたが、明確な根拠がないため、ジェラードの主張と同様の結果に終わっている[194]。
議会地下室は、カトリック陰謀事件のニュースが流れた1678年まで個人に貸し出され続けていた。その後は、議会開会式の前日に地下室を捜索することが賢明とされ、この儀式は現在まで続いている[191]。
ガイ・フォークス・ナイト
1606年1月、事件後初の議会開催中に「1605年の11月5日遵守法」が可決され、11月5日を記念した礼拝や説教がイングランドの恒例行事となった[195]。この法律は1859年まで有効であった[196]。 教会が鐘を鳴らしたり、焚火を行って祝う週間は陰謀が発覚した直後から始まっており、初期の祝賀行事でも花火が打ち上げられていた[195]。 イギリスでは、11月5日は「ボンファイア・ナイト(焚火の夜、Bonfire Night)」、「ファイアワークス・ナイト(Fireworks Night)」、「ガイ・フォークス・デー(Guy Fawkes Day)」などと呼ばれている[196]。
イギリスでは、11月5日前後に花火を打ち上げる習慣が残っている。 伝統的には、11月5日までの数週間、子供たちは古着に新聞紙を詰めてグロテスクなマスクを付けた「ガイ」の人形(ガイ・フォークスを模したものと思われる)を作り、これを当日に焼いた。かつてはこの人形を街頭に出して花火代を集めることも行われていたが、これは現在では珍しいものとなっている[197]。 このように、ガイという言葉は、19世紀には奇妙な格好をした人を意味するようになり、やがて20世紀から21世紀にかけて男性を意味するようになった(タフガイやナイスガイなど)[196]。
11月5日の花火大会や焚き火パーティーは、イギリス全土で行われ、大規模な公共の場でも個人の庭でも行われる[196]。 特にサセックスでは、地元のサセックス・ボンファイア協会が主催する大規模な行列や大きな焚き火、花火大会が行われ、中でもルイスでは最も手の込んだイベントが開催される。
伝記作家のエスター・フォーブスによれば、独立前のアメリカ植民地ではガイ・フォークス・ナイトは非常に人気のある休日だったという。ボストンでは「ポープ・ナイト(Pope Night)」と呼ばれ、この日の騒ぎは反権力的な雰囲気を帯びて、しばしば危険な状態に陥り、多くの人が家に籠ったという[198]。
爆発の再現
2005年に放映されたITVの番組『The Gunpowder Plot: Exploding The Legend(火薬陰謀事件:爆発の伝説)』では、貴族院の実物大レプリカを作り、合計1トンの火薬樽を使って爆破実験を行った。 実験はADVANTICA社が所有するスペイダム実験場で行われ、火薬が正常に使用されていれば、爆発によって建物内の全員が死亡しただろうことが実証された[199]。 爆発の威力は、地下室を構成する深さ7フィート (2.1 m)のコンクリート壁(史料に基づいて旧貴族院の材質を再現したもの)のうち、玉座の直下に当たる樽があった端の壁は瓦礫と化し、隣接していた部分の壁もそれに巻き添えになる形で押しのけられるようになっていた。 爆風の威力を計算するために建物内に置かれていた測定器は、爆発によって破壊される直前に目盛りがオーバーしたことが記録されていた。廷臣や貴族、司教たちに囲まれる形で、玉座に置かれていたジェームズを模した人形の頭部の一部は、かなり離れた場所から発見されたという。 番組によれば、爆発から半径330フィート (100 m)以内にいた者は死亡し、ウェストミンスター寺院のステンドグラスはすべて粉々になり、宮殿周辺の窓もすべて粉々になっただろうと推測している。 この爆発は何マイルも離れたところからも見ることができ、音ならさらに離れていても確認できたと思われる。 フォークスが覚悟していたように、仮に火薬の半分しか爆発しなかったとしても、貴族院とその周辺にいた全員が即死したものと考えられる[199]。
また、番組では火薬が劣化していれば爆発は起こせなかったという説も検証し、否定した。 意図的に劣化させ、火器にも使えないような低品質の火薬の一部を山積みにして点火しても大きな爆発を起こすことができた。すなわち、劣化していても木樽の中に詰めれば、質に関係なく衝撃を拡大させることができた。圧縮された火薬はまず樽の上部から吹き上がり、数ミリ秒後に吹き飛ぶという大砲のような効果を見せた。 計算すると火薬の扱いに長けていたフォークスは必要な量の2倍用意していたことがわかった。 フォークスが使用したものと同じサイズの樽の中に、イギリスで入手可能な当時と同じ火薬12キログラム (26 lb)を入れて爆発させるテストを行ったところ、プロジェクトの専門家たちは、圧縮がもたらす爆発の効果に非常に驚いたという[200]。
フォークスが守っていた火薬の一部は現存している可能性がある。2002年3月、大英図書館で日記作者ジョン・イーヴリンのアーカイブを目録化していた作業員が、多数の火薬のサンプルが入った箱を発見した。この中にはガイ・フォークスが所有していたというイーヴリンの簡易な自筆メモが入っているものも含まれていた。19世紀に書かれた別のメモがこの出所を確認していたが、1952年に付け加えられたメモには「しかし、もう何も残っていなかった!(but there was none left!)」とあった[201]。
注釈
- ^ 斬首刑や四つ裂き刑にされず五体満足のままを意味している。
- ^ 後述のメイン陰謀事件に対比して「バイ(副)」と呼称される。
- ^ 前述のバイ陰謀事件に対比して「メイン(主)」と呼称される。
- ^ アンがいつ、どのような形でカトリックに改宗したかについては歴史家の間でも意見が分かれている。 「1590年代のある時にアンはローマ・カトリック教徒となった」[18] 「1600年以降、ただし1603年3月よりはかなり前に、アン王妃は王宮の隠し部屋にてカトリック教会に信仰を認められた」[19] 「(前略)ジョン・リンゼイ卿は、1604年11月にローマに赴いて教皇に謁見した際、王妃がすでにカトリック教徒であることを明かした」[20] 「このような状況を歓迎していたはずのカトリック教国の大使たちは、王妃が自分たちの手の届かないところにいることを確信していた。「彼女はルター派である」と、ヴェネツィアの特使ニコロ・モリンは1606年に結論づけている」[21] 「1602年に出された報告書では、アンが(中略)数年前にカトリックに改宗したとあった。著者のスコットランドのイエズス会士ロバート・アバクロンビは、ジェームズが妻の放棄(desertion)を平然と受け止めていたと証言し、「さて妻よ、そうではないと生きられぬというのであれば、できるだけ目立たぬように最善を尽くせ」と述べたとしている。実際、アンは自分の宗教的信念をできるだけ静かに保ち、残りの人生、さらに死後も、その内心は晦渋なままであった」[22]
- ^ 1605年と2008年の5000ポンドの貨幣価値の比より計算。
- ^ 1601年と2008年の3000ポンドの貨幣価値の比より計算。
- ^ トマス・パーシーの娘はケイツビーの8歳になる息子と婚約しており、2人の間に親族的な関係が築かれていた可能性がある。また、後述のケイツビーの友人であるジョン・ライトとは義兄弟の関係にあった[39]。
- ^ これら記録は拷問や脅迫の元での証言や、政府の干渉を受けたと思われるものもあるため、信憑性には一定の疑いがある。
- ^ 後のポルトガル王ジョアン4世の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。
- ^ ベイツ本人の告白による。
- ^ 当時、火薬は兵士や民兵、商船、火薬工場などからブラックマーケットを通して購入することができた[79]。
- ^ Haynes (2005)は、テシモンドが告白を受けたのはトマス・ベイツとしている[80]。
- ^ アン・ヴォークスは本事件の犯人たちのほとんどと親戚関係にあった。また、自宅においてヘンリー・ガーネットを始めとしてカトリックの司祭(神父)たちを匿っていた[82]。
- ^ 旧暦であれば10月11日。
- ^ トマス・トレシャムはエセックス伯の反乱に加担した息子フランシスとケイツビーの罰金の一部を肩代わりした。
- ^ この時の集まりには劇作家で詩人のベン・ジョンソンも同席していたというが陰謀発覚後は、犯人たちとの交友を無かったとするに労力を要した。[93]。
- ^ ハディントン・コートはトマス・ウィンターの兄ロバートが相続した物件であり、神父たちの避難所としてしばしば密かなミサも行われていた[49]。
- ^ ジェームズの言葉を借りれば、フォークスは「私だけではなく、あるいは私の妻や子孫だけではなく、国家そのもの」の破壊を企図していた、ということになる[116]。
- ^ 原文は「Wynter」。
- ^ この火薬はロンドン塔に運ばれたが、「腐っていた」という[115]。
- ^ ジェームズは「ローマの宗教を信奉する者がすべて同じ罪を犯しているということにはならない」と述べた[134]。
- ^ ヴォークスは息子のエドワードの結婚に関してウェンマンに手紙を書いており、その中には解釈が難しい(怪しい)文言があったために、これを盗み見たリチャード・ウェンマンに疑われていた[152]。
- ^ モンティーグル男爵の義弟であり、本来はハンフリー・リトルトンのように犯人隠匿(司祭隠匿)の罪で死刑の恐れもあったが、事件解決に貢献した男爵の口添えにより恩赦を受けた[164]。
- ^ Haynes (2005) は「Minute ista pueris」と間違えたようである。
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