決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 18:09 UTC 版)
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概要
通常は、一方(挑戦者)が、自らの名誉を回復するために決闘を申し込む。主に、通常の裁判などでは自らの正しさが証明できないときに使われた。一般的に決闘は同じ社会的階級の者同士で行われた。特に上流階級の者同士で行われる決闘は広く注目を集めた。現代、多くの先進国では決闘は禁止されており、まためったに行なわれることはない。 たとえば日本では、決闘罪ニ関スル件(1889年制定)により、決闘は禁じられている。
決闘はしばしば文学作品上で美化されて表現されるが、実際に決闘を行うのは当然のことながら生命の危険が伴う。決闘に際し助命しないことを事前に宣言することもあった (no quarter)。
一方が決闘を申し込み、他方が受諾すれば決闘が行われる。申し込みの方式は、相手の足元めがけて白手袋を投げるか、顔を白手袋ではたくことによって行い、相手が手袋を拾い上げれば受諾となる。ただしこれ以外に、決闘状を送りつける方法や、代理人を向けて決闘を申し込む場合もある。
戦闘の方式は時代や国により決まっていることもあるが、近世以降は両者が協議して決定する。戦う2名のほか証人(決闘責任者)1名の計3人で決闘は成立するが、2名のみで証人が立てられなかった例もある。通常、戦闘を行う2名は、それぞれ1名の介添人(セコンド)をつける。このため、決闘は通常、5名で行われることになる。ただし、実際はこのほか大勢の見物人が決闘を見守る。
中世までは介添人は武器を持っていた。このため、決闘が白熱すると介添人も含む4名の乱闘となり、多数の死者が出ることもあった。近世以降、介添人は立会人となり、武器の携帯は禁じられるようになった。
記録に残る最初期の決闘は、棍棒と盾で行うものと決まっていたが、時代により、また場所により、武器や武装はさまざまである。中世は剣で行われ、近世以降は拳銃でも行われた。武器が選べる時代は、通常、最初に侮辱を受けた側が武器を選ぶ権利を持つ。武器は同一のものが2つ用意されるのが普通である。
時代によっては、どちらか一方が死ぬまで戦闘が続けられた。敗者がその場で処刑された時代もある。
決闘は同じ身分の者同士しか行えなかった。たとえば、自由民と農奴は決闘を行えなかった。しかし、そのような場合、領主が特別に、一時的に農奴に自由民の資格を与え、決闘が行われることがしばしばあった。
戦闘は申し込んだ者と申し込まれた者が行うが、病人と女性、年少者は代闘士(チャンピオン)を立てることができた。職業として代闘士があった時代がある。時代が下ると、聖職者、老人なども代闘士を立てることができるようになり、13世紀ごろを境目にどのような人物でも何らかの理由で代闘士を立てることが認められるようになった。
封建時代の日本において、主に武士階級が行った決闘はヨーロッパの作法と幾分異なる部分がある。正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。
江戸時代の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。有名な巌流島の決闘の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでおり、これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている[1]。決闘の結末は理非をもって裁断され喧嘩両成敗とはならないのが通常であったが、しばしば敵討騒動の原因となった。
歴史
決闘裁判
決闘はゲルマン民族の伝統が由来と考えられている。恐らく、6世紀には制度として決闘は存在した。ゴート族は決闘を行わなかったと考えられている。イングランドには最初期には決闘はなく、ウィリアム1世によってもたらされた[2]。
当初、決闘は、正式な裁判手続き(trial by battele)の1つであった。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た[3]。
決闘裁判においては、神は正しいものに味方すると信じられていたこともあり、その結果は絶対的なものとして受け入れられていた。
1385年、フランスで合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ジャック・ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。しかし後になり、カルージュは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した。このため、決闘裁判の正当性そのものが揺らぐことになり、この結果、フランスにおいて決闘裁判は制度的に廃止された。
イングランドでは、1492年に、正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が行われた。同じ世紀の中ごろに、非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀には裁判手続きとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし、イングランドでは決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、殺人罪で告訴された者が決闘による裁判を選び、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかし、この決闘は殺害された者の遺族が受諾しなかったために成立しなかった[4]。この件をきっかけに、翌年、決闘は完全に非合法化された(なお、イギリスでは、これ以前に私闘としての決闘は禁じられており、裁判としての決闘のみが合法とされていた)。
私闘としての決闘
このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、その後も私闘としての決闘はしばしば行われた。フランスでは16世紀終わりから17世紀はじめ、アンリ4世の時代、年平均235人が決闘によって命を落とした。申し込まれた決闘を受諾しないことは死に値する不名誉と考えられていたこともあり、決闘はしばしば行われた。具体的には、貴殿は勇敢だという噂を聞いたので決闘を申しこむというような理由での決闘がしばしば行われた。
ヨーロッパ各国の王はたびたび決闘禁止令を出したがほとんど守られなかった。決闘を行った者は死罪とされることが多かったが、実際に決闘を行うのは有力貴族が多く、それらの貴族を死罪にすることは支援者を失うことでもあったので、何度も恩赦が与えられ、実際に決闘による罪で死刑にされる者は皆無だった。このため、私闘としての決闘は全くなくならなかった。これはさらに時代が下がっても同じだった。ただし、平民と貴族などのような、身分の異なる者同士の決闘も行われるようになった。
ベンジャミン・フランクリンは決闘を激しく非難し、決闘を申し込まれても受諾しないことを積極的に奨めた。
19世紀になると、相手を殺すことは避けられるようになり、19世紀終わりまでにはほとんどの国で非合法化された。ただし、アメリカ合衆国の一部の州では、未だに合法的な決闘の方式を定めた州法が廃止されずに残っている。ただし、それらの法が現代でも有効であると裁判所が判断するかどうかは別の問題である。
フランスでは20世紀はじめまで、決闘はごく普通に行われ、その結果が新聞に掲載された。もちろん決闘は非合法化されていたが、あまりに決闘の数が多く、この時代までは実際には取り締まられていなかった。第一次世界大戦後、決闘は古臭いと思われるようになり、新聞記事になることも少なくなった。しかし、散発的に決闘は行われていた。最終的に第二次世界大戦後、決闘はほとんど行われなくなった。しかし、散発的な決闘は現代でも行われることがある。
ウルグアイでは多くの条件をつけてはいるが、2006年現在においても決闘は合法である。ただし、決闘を非合法化する法案はたびたび検討されている。
軍人の決闘
軍人の決闘については別に定めのある国もあった。プロイセンでは、軍人の決闘があまりに多かったため、1843年に名誉裁判所が設置された。これは軍人同士の安易な決闘を防ぐための機関でもあったが、名誉裁判所そのものが決闘を命じた例もある。当時のプロイセンでは決闘は非合法であったが、名誉裁判所が認めたり命じたりした軍人の決闘は別扱いされ、合法とされていた。この制度は1918年、プロイセン王国がなくなるまで存在した。
政治家の決闘
オットー・フォン・ビスマルクは、ドイツ国会が軍事予算問題で紛糾したとき、反対派のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウに決闘を申し込んだ。そのときフィルヒョウが提示した決闘の方法は、加熱済みソーセージと、見た目が同じで旋毛虫が注入された未加熱のソーセージとを用意して、めいめいに選んだ方を食べるという方法だった。フィルヒョウは旋毛虫を食べた場合にどれほど無残に死ぬかをビスマルクに説明した。ビスマルクは決闘の申し出を撤回した[5][6]。
学生の決闘
ドイツ、オーストリア、スイス、およびラトビアやフランドル地方の一部ではメンズーア(Mensur)という学生文化が存在する。これは15世紀の終りにスペインでレイピアによる決闘が慣例化したのをドイツの学生達が導入し、当初は通りで学生同士が決闘に到り死者を出すことも珍しくなかった。17世紀頃には審判と医師の立会いによる正式なものへと発展し、スポーツと決闘のいずれでもない特有の文化として定着した。これは底意のない形式的な侮辱により開始され、対戦相手のいずれかが血を見ることによりほぼ円満に終結するといったものであり、在学中に十数回ほど対戦することも珍しくなく、ドイツの伝統的な学士会 (Studentenverbindung) のなかには、メンズーアの対戦経験があることを加盟条件に課すものもある。
競技としての決闘

1908年ロンドンオリンピックでは蝋で出来た弾丸を使用する決闘が非公式競技として行われた。
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