水原茂
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その他
日本に、アメリカメジャー仕込みのワンポイントリリーフ、ブロックサインを持ち込んだ最初の人といわれる。当時、大抵のチームの監督は三塁、あるいは一塁コーチャーズボックスで指揮を執っている事が多かったが、星野仙一は水原を特集した番組内で故人の思い出を語る中で「水原のオヤジだから、ああ言うブロックサインを送るポーズは絵になった」と語っている。因みに監督就任以来、背番号は「30」を背負っていた時期が長かったが、東映の監督時代最後の年は「81」、中日の監督時代最初の2年間は「68」に変更、中日の監督時代は三塁コーチは専属のコーチに一任し最後の年、「30」に再び背番号を戻し、最終試合で東映の監督時代以来、中日では初めて三塁コーチに立ったと言う。
浪華商業高等学校で監督を歴任した中島春雄とはシベリア抑留時代に捕虜収容所で一緒になった関係で、戦後、同校の強打者だった坂崎一彦を獲得。また、坂崎の後輩・張本勲を中退させて巨人にスカウトしようとしたエピソードがあるが、張本は兄の「プロにはいつでも入れるが、高校は卒業していた方が良い」と言う説得で高校を卒業後、東映入り、その後、水原の監督就任で同一チームに在籍する事になるが、その後、更に20年余りを経て、水原の評論家時代、交換トレードで巨人に移籍している。ちなみに、張本を放出した当時の日本ハム(東映の後身)の球団代表は三原だった。三原は当時のオーナー・大社義規と共に水原時代に入団した選手を中心とした主力選手[注釈 5] の放出に動いていた。加えて、張本の場合は自身も移籍を希望していたという事情もあった[21]。
米飯を食べないことで有名で、地方遠征に行くと、朝食からビールに卵黄を二つ入れてシェークして飲む。昼はそばなどを軽く食べ、夜は酒の肴をあてにひたすら酒を飲んでいた[22]。
注釈
出典
- ^ 加藤三明. “三田評論”. 慶応義塾. 2015年9月13日閲覧。
- ^ a b c 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』166頁
- ^ 『巨人軍の男たち』32頁
- ^ a b c 『プロ野球トラブルの歴史』45頁
- ^ a b c ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、54頁
- ^ 『プロ野球トラブルの歴史』46頁
- ^ 巨人・原監督 球団ワースト記録の日本シリーズ9連敗 -サンケイスポーツ
- ^ a b 広岡達朗著『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』P54-55
- ^ 1961年から67年東映フライヤーズ
- ^ a b ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、10-11頁
- ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、38頁
- ^ a b ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、39頁
- ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、17頁
- ^ 週刊ベースボール2019年11月4日号、張本勲の喝、連載29回、短期決戦の行方は監督の眼力と采配、言葉の力が左右する、98頁
- ^ 異郷の捕手・白仁天、20年の波乱と流転。もっとも語り継がれる“事件”とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1962~81年】 - 週刊ベースボール
- ^ “一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!張本勲コラム「守備の要とも言うべき二遊間。華麗だった阪神の鎌田-吉田、東映の大下-大橋も絶妙だった」 - 週刊ベースボール
- ^ 『野球小僧 8月号 2012』白夜書房、p.175
- ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.193
- ^ “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月23日閲覧。
- ^ 『サムライ達のプロ野球』110頁
- ^ ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史II』(1991年)。
- ^ 『剛球唸る!』112頁
- ^ 『巨人軍の男たち』33頁
- ^ 『日本映画人名事典・女優篇 下巻』(キネマ旬報社、1995年)の「松井潤子」の項(p554)参照。執筆者は盛内政志。
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