水原茂 水原茂の概要

水原茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 20:35 UTC 版)

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水原茂
東映監督時代(1961年2月28日)
基本情報
国籍 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 (1909-01-19) 1909年1月19日
没年月日 (1982-03-26) 1982年3月26日(73歳没)
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1950年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1977年
選出方法 競技者表彰

現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セントラルパシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。NPB初のベストナイン(三塁手部門)も受賞している。

経歴

幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという[1]

現役時代

香川・旧制高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩・宮武三郎(のちの阪急初代主将)とともに甲子園に出場。投手・三塁手として名をはせる。甲子園では1925年夏1927年夏の2回、全国優勝を達成した。水原と宮武はともに慶應義塾大学に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続いた。慶應時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。しかし、「リンゴ事件」の他、麻雀賭博検挙され、野球部を除名された。打者としてリーグ通算63試合出場、193打数48安打、打率.249、0本塁打、24打点。投手として通算30試合登板、13勝8敗。野球部は除名処分となったものの、水原はのちに慶應義塾大学の慶應スポーツ新聞会が発行している学生新聞「慶應スポーツ」の題字を担当している。

水原と三原の銅像

早稲田大学三原脩とは、プロに進んで以降もライバルであり、ともに監督として日本シリーズを戦った。特に1956年から1958年にかけて、3年連続で水原率いる巨人と、三原率いる西鉄が日本シリーズで対戦、「巌流島の対決」と呼ばれた(詳細は後述)。1931年6月14日早慶戦2回戦に登板した際には、三原に満場の度肝を抜くホームスチールを成功されている。

水原は、1931年1934年の大リーグ選抜来日時には全日本チームのメンバーに選ばれた。1936年秋に巨人に入団すると、前川八郎に代わって三塁手のレギュラーとなる。以降、二番または三番の上位打線を打ち、1937年秋季リーグでは打率.290、31打点といずれもチーム2位を記録した。また、沢村栄治が応召で退団した1938年には秋季リーグで投手も務め、スタルヒンに次ぐ8勝(2敗)を挙げ、防御率1.76とリーグ2位に付けた。1939年からは主将を務め、1940年ベストナイン1942年には応召によってシーズン途中の8月で途中離脱したにもかかわらず、人望があったということで最高殊勲選手に選ばれている[2]

戦争ではアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日舞鶴港に帰国。4日後の10:30に東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告する。水原は既に40歳になっていたが、ファンからの水原のプレーを見たいとの声を受けた読売本社からの要請を受けて、現役に復帰する[3]。しかし、衰えは隠せず復帰したシーズンは公式戦には出場せず、二リーグ制となった昭和25年は兼任監督となったが、わずか7試合の出場に留まった。

読売ジャイアンツ監督

巨人監督時代。右は川上哲治(1956年)

1949年シーズン終了後、巨人選手たちが三原監督に対する排斥騒動を起こし、その流れに押され12月31日に監督に就任することが発表された。1949年にチームを戦後初優勝に導いた三原は総監督に異動となる[注釈 1]。これは三原の水原への扱いに対して不満を持っていた選手の大半がクーデターを起こして、事実上指揮権を奪ったというのが定説[要出典]となっている。水原自身はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたという。

選手兼任監督だった1950年は3位に終わるが、1951年から1953年までリーグ3連覇・日本一。巨人の「第二期黄金時代」を築いた。選手には与那嶺要川上哲治千葉茂広田順別所毅彦ら名選手が揃っていた。しかし1954年は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃した。

この間、水原の監督就任4年目にあたる1953年からユニホームに黒とオレンジのチームカラーを導入した(MLBニューヨーク・ジャイアンツを参考にしたもの)。

再び独走でリーグ優勝を達成して臨んだ1955年の日本シリーズは南海と4度目の対戦になった。巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗を喫し、シリーズで初めて王手をかけられる。水原は第5戦に当たって、捕手を広田順から藤尾茂へ、二塁手を千葉茂から内藤博文へ、左翼手を樋笠一夫から加倉井実へと若手選手を抜擢する賭けに出ると、これらの選手が活躍して3連勝して逆転日本一を達成した。

翌年もリーグ優勝を達成すると、日本シリーズの対戦相手はライバルの三原脩率いる西鉄ライオンズとの対戦となり、これはマスコミから(三原の巨人退団の経緯を踏まえて)「巌流島の決戦」と喧伝された。以後1958年まで3年連続で日本シリーズで対戦し、いずれも三原西鉄に3年連続で敗れた。

1956年、品川主計球団社長が新田恭一を水原の頭越しにコーチで招いた[4]。新田は野球を科学的に分析した新田理論で、当時の球界に一目置かれる存在だったが、しかし水原と新田の考えは合わなかった[4]

1957年はリーグ優勝したものの日本シリーズでは続けて西鉄ライオンズに敗れた。このときの対戦成績は1分4敗で1勝も挙げることなく敗れたため読売内部から水原の手腕を問う声が高まった。2年連続で日本シリーズ敗退、品川球団社長は藤本英雄、谷口五郎の2コーチの解任を決めた[4]。しかし、水原が「藤本をやめさせるなら、自分も身を引く。」と反発[4]正力松太郎オーナーは国家公安委員会委員長を務めており、水原を人事院ビルにあった国家公安委員長室に呼びつけた。正力オーナーは品川球団社長のコーチ解任人事について、水原に新任コーチの人選を認めることを条件に受け入れるよう命じた。水原はこれを聞いて監督の辞任を撤回する。だがこれを聞いた品川球団社長はその場にいたマスコミの前で「ワシに謝れ」となじった。この修羅場は「人事院騒動」あるいは「謝れ事件」と報道された[4]。結局藤本、谷口両コーチは更迭された[4]

1958年の日本シリーズは三原の西鉄ライオンズと3度目の対決となった。第1戦から3連勝して王手をかけるが、明け方まで降り続いた雨のために第4戦は中止。しかし試合開始前に雨は上がっており試合に耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバスで観戦に向かうファンたちに配慮しての中止決定とする西鉄側を巨人と水原は執拗に抗議したが認められなかった。その第4戦を落としたものの第5戦は9回表を終わって1点のリード。しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議、結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。さらに第6戦開始前に西鉄が先発メンバーの変更を申し出(当時は前日に先発メンバーを発表)、これを巡って両軍はもめ、井上登コミッショナーを挟んで悠然と座る三原と苦虫をかみつぶしたような表情の水原が対峙する写真が残っている。この騒ぎで試合開始が遅れ、調整に混乱させられた先発藤田元司が初回に中西太に決勝打となる先制2ランを浴びこの試合も敗れ、稲尾の4連投で4連勝を挙げた西鉄に史上初の3連敗4連勝を許してしまった。

この年のオフ、投手の別所毅彦が契約更改で登板数の保障を求めたことに、「選手の起用は監督の専権事項」と強く批判。この対立はマスコミを賑わせたが最終的に別所が誤りを認めて謝罪、水原もできるだけ別所の意向に沿うように努めることで決着した。別所はヴィクトル・スタルヒンの持っていた通算最多勝記録の更新を目標としており、登板機会を増やしたいという意図があったとされる。

1959年もリーグ優勝を果たすが、今度は杉浦忠を擁する南海ホークスの前に4連敗を喫した。日本シリーズは1958年第4戦から翌1959年第4戦まで8連敗になり、巨人監督としては原辰徳(2020年)が9連敗で更新されるまではワースト記録だった[5]

そして、1960年には三原が同じセ・リーグの大洋監督に就任し、マスコミから巌流島の決戦再びと喧伝された。三原は6年連続最下位の大洋を巧みな選手起用でチーム力を引き上げ、巨人と優勝争いを繰り広げ、大洋に屈してリーグ優勝を逃し2位となる。水原はリーグ優勝が絶望となった10月、試合終了後カメラマンから執拗に写真を取られたことに激怒して、そのカメラマンを殴りつけてフィルムを取り上げた[注釈 2]。結果、水原は5年連続の日本一を逃す結果となり、正力オーナーの水原に対する評価も下落し、「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残して11月19日水原は巨人の監督を辞任した。 同年は投手陣の不調と駒不足もあり新人の堀本律雄を69試合に登板し、29勝18敗と大活躍し新人王を獲得したがこの投げすぎがたたって間もなく肩を壊し、投手寿命6年で引退したが堀本の引退時に水原は「君には、全く申し訳ないことをしてしまった。俺が君の寿命を縮めてしまったようなものだ。俺がもっと君の登板に配慮しておれば、君はもっともっと稼ぐ事ができたのに」と述べたと言う、堀本は「私はこの水原さんの一言に救われた」と結んでいる[6]。当時巨人の選手だった広岡達朗は1人や2人の突出した選手に頼るのではなく、長いシーズンを見通した投手陣の整備と起用が必要と記している[6]

東映フライヤーズ監督

1960年12月8日東映フライヤーズのオーナー大川博に「金は出すが、口は出さない」と口説かれて東映監督に就任。東映は当時万年Bクラスに甘んじていたが、水原は就任1年目で南海ホークスとシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ2位に上げた。水原は着任とともに、ユニフォームを自らデザインして頭文字のFを飛翔する鳥を摸したデザインになっている胸ロゴなどスタイリッシュな物に変更させた。このユニフォームは色づかいが巨人と似ていた(帽子・アンダーシャツなどの色は巨人が黒・東映は焦げ茶)ことや、水原が巨人時代と同じく三塁コーチも兼任していたため、「巨人の水原じゃないか?」と錯覚したファンも少なくなかったようである[7][8]

1961年、前年9勝を挙げていたが、勝ってなくてショートリリーフが中心だった久保田治土橋正幸が先発した次の日の登板させて25勝、お山の大将でわがまま放題で誰も触らなかった山本八郎に対して例外扱いせず、「プロ野球というはチームが勝たなきゃ何にもならんのだ。ホームラン王、首位打者を獲っても20勝してもチームがBクラスじゃ給料上がらん。いかに一致団結して邁進するか、いかにチームのために自分を殺すかだ。」と説教をし、張本勲は「やっぱり全然違うなと思いましたね。」と回顧している[9]。同年は9月初めに勢いが落ちた南海に代わりに首位に浮上し、一度は初優勝が目前に見えたが、しかし優勝争いに慣れない面々は守備でエラーを連発するなど、誤算が続出、最終的に息切れし南海の優勝を許したが、83勝52敗5分けの貯金31は球団史上最高、張本が首位打者、土橋が30勝、久保田が25勝、西園寺昭夫はリーグ最多の97得点、毒島章一もリーグ最多の11三塁打と投打が噛み合ってきた[10]

1961年オフには大規模な補強を敢行して、浪商2年生だった尾崎行雄中退させて獲得、早慶戦で活躍した安藤元博立教大学青野修三芝浦工大岩下光一らを獲得。尾崎はエースとして活躍し、青野、岩下は二遊間を組んでレギュラーとなるなど、補強は成功し、張本が打率333(リーグ4位)、31本塁打、99打点(共にリーグ2位)でMVP、久保田が最優秀防御率のタイトルを獲得し[11]、チームはリーグ優勝を果たした。1962年の日本シリーズでは藤本定義率いる阪神タイガースと対戦、第1戦と第2戦に連敗し、日本シリーズ10連敗となり、第3戦は引き分けで、第4戦から4連勝して日本一を達成する(第1戦、第2戦で先発だった土橋を第3戦以降は救援に回し2勝を挙げて種茂雅之と共にMVPを獲得[12]、第3戦からデータ研究に長けていた安藤順三から種茂に捕手を変え、種茂は思い切ったリードで投手の力を引き出しながら打っても殊勲打を放った[13]、第7戦では主砲張本勲に守備固めの選手と交代させるなど非情な采配でチームを引き締めた)。以後1967年まで監督を務めて、その間Aクラスを保った。張本は「私はいつも言うけど80年以上のプロ野球の歴史の中で、名将と言えるのは、三原脩さん、水原さん、鶴岡さん、川上哲治さん、この4人だと思うんですよ。優勝して、その後もっと戦力を上げたいじゃないですか。補強もしたい。そのためにはお金も使いたい。ムダなお金じゃないんだから。ところが球団が聞く耳を持たなかったから水原さんは去っていくわけです。東映に7年いらっしゃて、最後の2年ぐらいは我慢したそうなんですよ。」[9]と回顧している。

1965年頃、オープン戦で韓国に遠征した。あるゲームで大杉勝男が韓国のノンプロチームをひいきする地元審判の露骨なジャッジに腹を立てて悪態をついたのを見るや大杉を呼びつけるなりビンタを飛ばした。これを見た韓国の観客は水原の行動に心服し涙したという。

白仁天は1965年にレギュラーに定着し[11]、翌1966年に水原は白を外野手に転向させた[14]

1967年、大下剛史ショートにレギュラーに抜擢し、大下自身も「オヤジ(水原監督)には感謝している」と言っていた[15]

毒島章一は「水原さんは勝負師というかな、勝つためにどうしたらいいか、ということがしっかりしてる。そういう人が来て初めて、チームワーク、勝つことに対する執念が出てきた感じでした。で、その上で細かい野球をやる。それまではわりかし自由で、大雑把な野球でね」と語っている[16]

土橋正幸は「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている[17]

1967年11月25日大川博オーナーから監督の解任を通告された。

中日ドラゴンズ監督

中日新聞1969年1月1日紙上で対談

1968年11月6日に監督に就任し、1969年から1971年まで中日の監督を務める。就任時には中京財界の要人を複数従え、そのことが球団内での立場を強くした。在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一島谷金二谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支え後継監督の与那嶺要による巨人のV10を阻む1974年の優勝の土台をつくった。だがその一方で1年目に江藤愼一をチームから放出している(3年目1971年の62歳で開幕を迎えたシーズンでの監督在任は2011年高木守道が就任するまで球団史上最年長監督)。

水原の下でプロとして開花した星野は、ルーキーイヤーのある日の巨人戦で打ち込まれ敗戦投手となることがあった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください。必ずリベンジしてみせます!」と直訴した。コーチたちは連投に難色を示したが、水原は「仙が投げたいといっているんだ、投げさせてやれ!」といって翌日の巨人戦でも先発した。連投の星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思いダグアウトでうなだれている星野に、そっと手を差し出す人間がいて顔をあげると水原であった。水原は星野に「よくやった。いいか、プロの世界というのは、やられたらかならずやり返す。この精神を忘れるな。それがもてなくなったらプロとしては終わる。今日のことは決して忘れるな。よくやった」といった。星野は「水原さんのあのときの握手してもらったときの手のあたたかさは今でも昨日のことのようにおぼえています。プロの精神を自分は水原さんから教えてもらいました」と言っている。

また、水原は東映に続いて中日でもユニフォームのデザインを担当している。当時MLBでは鮮やかなユニフォームが全盛を迎えており、鮮やかな赤いユニフォームを纏い来日して日本のファンに衝撃を与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身は1950年-1951年の巨人、球団も前年に赤いユニフォームで失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は1966年までのロゴに近いデザインながら、髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更しており[18]、この意匠はその後のユニフォームにも継承されることとなる。

1971年10月4日に公式戦終了とともに中日監督を辞任し、監督業からも引退することを表明しユニホーム生活に別れを告げた。水原の監督最終日の第一試合の相手はライバル・三原率いるヤクルトアトムズだった。この試合に水原中日は勝利し1971年の対ヤクルト戦成績を12勝12敗2分の五分とした。第二試合の大洋ホエールズ戦終了後、水原はナインから胴上げされた。

晩年

1968年1972年以降は東京放送TBSテレビTBSラジオ)専属野球解説者として活動した。1968年はスポーツニッポン野球評論家、1972年以降は日刊スポーツ野球評論家も務めた。1977年野球殿堂入り。

1982年2月に吐血して入院、同年3月26日肝不全のため東京都新宿区東京女子医科大学病院で死去、73歳没[19]1947年腸チフスで現役中に急逝し背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫に次ぐ、史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われた。

選手としての特徴

三塁手として深い守備位置からの幅広い守備範囲を誇る一方、強い手首を活かした正確で早い送球で、深く守っていても一塁で刺すことができた。また、三塁前に転がるゆるいゴロを前進して素手で掴むとそのままアンダースローで一塁へ投げ間一髪で打者走者を刺すプレーも得意とした[20]。これは、高松商業時代に当時の慶応大学野球部の監督だった腰本寿の指導を受けたり、アメリカ遠征で当地の選手が三塁線のボテボテのゴロを素手で掴んだりするのを見て採り入れたとされる[2]

打撃は手首が強かったせいか、腰で打つというより手で打つ方だった[2]


  1. ^ 三原は1947年に総監督という肩書でチームに復帰しているが、名目上の監督は1946年復帰から就任していた内野手の中島治康。しかし復帰年の途中から公式戦の指揮は三原が執っていた。
  2. ^ 「殴りつけたのではなく、火のついた煙草を投げつけただけ」という記者の証言もある。なお、騒ぎに気付いてフィルムを取り上げたのは広岡達朗
  1. ^ 加藤三明. “三田評論”. 慶応義塾. 2015年9月13日閲覧。
  2. ^ a b c 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』166頁
  3. ^ 『巨人軍の男たち』32頁
  4. ^ a b c d e f ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、54頁
  5. ^ 巨人・原監督 球団ワースト記録の日本シリーズ9連敗 -サンケイスポーツ
  6. ^ a b 広岡達朗著『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』P54-55
  7. ^ 1961年から67年東映フライヤーズ
  8. ^ 1967年オールスター戦から、フロントの主導でビジター用のみデザインの変更が行われた(1967年の東映フライヤーズのユニフォーム)。
  9. ^ a b ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、10-11頁
  10. ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、38頁
  11. ^ a b ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、39頁
  12. ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、17頁
  13. ^ 週刊ベースボール2019年11月4日号、張本勲の喝、連載29回、短期決戦の行方は監督の眼力と采配、言葉の力が左右する、98頁
  14. ^ 異郷の捕手・白仁天、20年の波乱と流転。もっとも語り継がれる“事件”とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1962~81年】 -週刊ベースボール
  15. ^ “一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!張本勲コラム「守備の要とも言うべき二遊間。華麗だった阪神の鎌田-吉田、東映の大下-大橋も絶妙だった」 -週刊ベースボール
  16. ^ 『野球小僧 8月号 2012』白夜書房、p.175
  17. ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.193
  18. ^ 1967年から1968年途中まではドジャースと同様の書体で髭の長いのロゴを使用していた。
  19. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月23日閲覧。
  20. ^ 『サムライ達のプロ野球』110頁
  21. ^ 他に大杉勝男白仁天大下剛史等。
  22. ^ ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史II』(1991年)。
  23. ^ 『巨人軍の男たち』33頁
  24. ^ 『日本映画人名事典・女優篇 下巻』(キネマ旬報社、1995年)の「松井潤子」の項(p554)参照。執筆者は盛内政志。


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