島倉千代子 エピソード

島倉千代子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 00:56 UTC 版)

エピソード

地方との結びつき

島倉は、地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。

また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。

美空ひばりとの秘話

7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の美空ひばりである。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、追っかけとなった。

1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。

1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『明星』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。

周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは同所属のコロムビアレコード関連や各歌番組などの仕事で妹分として共演はしてもプライベートでは交流することは一切なかった。両者とも親しかった和田アキ子は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。

1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。所属のコロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員・関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。

その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。

翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。

1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。

島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという[39]

最晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉と、島倉と同様に弟のように可愛がっていたとんねるずの三人以外の面会は一切拒否していたとされる。

声優に挑戦

2003年6月29日フジテレビFNS27時間テレビ』内アニメ『ちびまる子ちゃん』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の声優に挑戦した。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番をアカペラ(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。2011年、DVDとして発売されている[40]

その他

  • 59年間の歌手生活において、ステージで一度も口パクはしなかった。
  • 人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し、作詞家のなかにし礼は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。
  • なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。
  • 横文字が苦手で『クイズ$ミリオネア』に出演した際、正解発表前の言葉「ファイナルアンサー」が言えず、代わりに「おしまいアンサー」と言っていた。
  • NHKのど自慢』への出場経験も有しているが、結果は「鐘一つ」に終わったとされている[41]
  • 島倉は八人きょうだいで姉二人が一歳、六歳で逝去している。弟二人は俳優デビューしたものの、一人は引退し、もう一人は作詞家に転身した。

注釈

  1. ^ 2002年10月から2010年9月まではコロムビアミュージックエンタテインメント。
  2. ^ 2年後の1990年12月2日に死去。
  3. ^ 当時の最多記録保持者は美空ひばりだった。
  4. ^ 1982年(第33回)までは、同じく連続出場を続けていたフランク永井とタイ記録。
  5. ^ 紅組歌手で3年以上連続でトリを務めた人物はひばり(3年連続および10年連続)とMISIA(4年連続)と島倉(3年連続が2回)しかいない。
  6. ^ 紅組出場歌手有志が島倉の後ろで応援。

出典

  1. ^ a b 島倉千代子さんが肝臓がんで死去、75歳 日刊スポーツ 2013年11月8日
  2. ^ 島倉千代子(2016年4月12日時点のアーカイブ) - スポーツニッポン。
  3. ^ a b c d e 笹森文彦 (2013年11月9日). “借金、けが…「人生いろいろ」お千代さん”. 日刊スポーツ. 2016年12月23日閲覧。
  4. ^ 『島倉家―これが私の遺言』118-121頁。
  5. ^ 島倉千代子(日本コロムビア)
  6. ^ a b 『歌ごよみ』島倉千代子著、読売新聞刊 (1994/01)
  7. ^ a b 島倉さん お墓準備していた…ピアノかたどり、戒名も”. スポニチアネックス (2013年11月10日). 2015年7月1日閲覧。
  8. ^ 《写真あり》「刑務所のタクアンって、こんなにおいしいのね」元ヤクザもびっくり! 刑務所慰問に島倉千代子とともに現れた「超大物タレント」の正体 - 文春オンライン・2023年5月14日
  9. ^ 『島倉家-これが私の遺言』108-109頁。島倉千代子著、文芸社 (2005/02)
  10. ^ 『島倉家-これが私の遺言』79頁。
  11. ^ 『紅白50回』、56頁。
  12. ^ 『島倉家―これが私の遺言』80-86頁。
  13. ^ 「金曜プレステージ・独占秘話!初公開!秘蔵映像!島倉千代子最期の223日~今夜明かされる壮絶人生と「からたちの小径」誕生秘話~」フジテレビ、2013年12月20日
  14. ^ 島倉千代子さん、青物横丁駅に流れる「人生いろいろ」に感謝の手紙(2013年11月8日時点のアーカイブ) スポーツ報知 2013年11月9日閲覧
  15. ^ 島倉千代子さん 3年前に肝臓がん患うデイリースポーツ 2013年11月9日閲覧
  16. ^ 島倉千代子 75歳バースデー「後期高齢者という紙届いた」 スポニチアネックス 2013年3月21日
  17. ^ 最期は苦しまず、眠るように…日本コロムビアが会見(2013年11月9日時点のアーカイブ) msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧
  18. ^ a b c d 南こうせつ「奇跡の歌声」 島倉千代子さん死去3日前に録音
  19. ^ 島倉千代子 逝去のお知らせ 日本コロムビア アーティストインフォーメーション:島倉千代子 2013年11月8日付
  20. ^ 官房長官 島倉千代子さん哀悼「昭和を代表する歌手」スポーツニッポン 2013年11月8日閲覧
  21. ^ 北島三郎「演歌界の大きなあかり」日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧
  22. ^ 五木ひろし「早すぎますね」日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧
  23. ^ 細川たかしさん「最後のパワーに驚きました」NHK「かぶん」ブログ(2014年1月9日時点のアーカイブ) 2013年11月14日閲覧
  24. ^ 氷川きよし 島倉千代子さんに誓いデイリースポーツ 2013年11月13日閲覧
  25. ^ 「最後にお顔を拝見したときにお別れを」スポニチアネックス 2013年11月9日閲覧
  26. ^ 「大きく輝いている先輩が…」大月みやこさんmsn産経ニュース 2013年11月9日閲覧
  27. ^ 【お悔み】都はるみ、優しく大好きな先輩日テレNEWS24 2013年11月8日閲覧
  28. ^ 八代亜紀 島倉さんは心労が多かったデイリースポーツ 2013年11月9日閲覧
  29. ^ 小林幸子 島倉さんに「母さん!」デイリースポーツ 2013年11月8日閲覧
  30. ^ 森昌子、訃報を知り号泣「本当に優しくてお母さんのよう」サンスポ 2013年11月9日閲覧
  31. ^ コロッケさん「かけがえのない人失った」msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧
  32. ^ 島倉千代子さん、人生いろいろ教えてもらった…山田邦子が悲痛な思いシネマトゥデイ 2013年11月9日閲覧
  33. ^ 島倉千代子さん葬儀、「人生の最後に素晴らしい時間をありがとう」冒頭に肉声流れmsn産経ニュース 2013年11月14日閲覧
  34. ^ 島倉千代子さん:「優しく時に厳しく」石川さゆり涙で弔辞毎日新聞デジタル 2013年11月14日閲覧
  35. ^ 石川さゆり弔辞「生涯を歌い手として見事なまでに全う」スポニチアネックス 2013年11月15日閲覧
  36. ^ 島倉千代子さん、遺作曲発売日に四十九日法要”. サンケイスポーツ (2013年12月19日). 2017年1月1日閲覧。
  37. ^ 離婚、借金、乳がん…「人生いろいろ」島倉千代子さん急死 サンスポ 2013年11月9日
  38. ^ [1],東スポWeb,2013年12月21日付
  39. ^ 田勢康弘『島倉千代子という人生』
  40. ^ DVD『ちびまる子ちゃん スペシャル「温泉に行こう!!」の巻』に収録。
  41. ^ なつかしの番組 音楽番組編:NHKのど自慢(2)”. NHKアーカイブス. 日本放送協会 (2010年5月14日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。 “当該頁末尾『アカイさんの一言』より。「NHKアーカイブスブログ(2010年5月14日)より転載、加筆、写真追加」”《》
  42. ^ サンケイスポーツ』2013年11月9日付、大阪本社版12版、26面。
  43. ^ 「売り上げベスト10」『島倉家-これが私の遺言』168頁。(該当ページにはノンブル表記なし)
  44. ^ 「電電公社のコマソン『赤い電話』」『官界通信』第969号、1970年2月16日、15頁。NDLJP:2644566/15






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「島倉千代子」の関連用語

島倉千代子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



島倉千代子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの島倉千代子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS