四国同盟戦争 和平

四国同盟戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 06:19 UTC 版)

和平

スペインの勝ち目が無いことが明らかになると、アルベローニは責任を取らされて1719年12月に失脚した[25][13]。イギリス、フランス、オーストリアは1719年10月にスペインが四国同盟の講和条件を認めなければカルロス王子パルマ・ピアチェンツァトスカーナ三公領の継承権を取り上げると決め、フェリペ5世は折れて1720年2月17日にハーグ条約を締結、戦争が終結した[2][13]

その結果、スペインはすべての占領地を返還し、その代わりパルマ公国の継承権が認められた。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は神聖ローマ帝国カール6世シチリア王国を割譲し、その代償として神聖ローマ帝国からサルデーニャ島を割譲された[2]。神聖ローマ帝国からサルデーニャ王の称号も認められ、サルデーニャ王国が成立した。

戦後、パルマ・ピアチェンツァ・トスカーナ三公領の継承について1724年にカンブレー会議スペイン語版が開催された[38]が全く進展せず[2]、オーストリアとスペインは独自に交渉して1725年4月のウィーン条約に繋げた[2][39][13]

脚注

参考文献

関連項目

  • サルデーニャ王国 (1700年-1720年)英語版

注釈

  1. ^ エリザベッタは結婚後、前王妃マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアの女官長であったマリー・アンヌ・ド・ラ・トレモイユ英語版を始め、ルイ14世と関係が深かったフランス人をスペインから追放したため、スペインに対するフランスの影響力は減退した。この流れはルイ14世の死によって決定的なものとなった。またフェリペ5世はフランスへの郷愁が強くフランス王位への未練を捨てる事ができなかった。しかしこれはスペインとフランスが合体する可能性を意味しており、周辺諸国に警戒心を抱かせた[6][14]

出典

  1. ^ a b White, Matthew (November 2010). "Eighteenth Century Death Tolls" (英語). 2017年7月22日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 友清理士. “スペイン継承戦争の戦後20年――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――”. 2017年7月17日閲覧。
  3. ^ 三石庸子「先住民宣教師サムソン・オッカムの最終選択をめぐって――文化的フロンティアの一考察――」『東洋大学社会学部紀要』第42巻第2号、東洋大学社会学部、2005年2月、168頁。 
  4. ^ Smith 1965, p. 235.
  5. ^ 友清理士 (2005年4月). “ラシュタット条約(1714)(摘要)”. 2017年7月27日閲覧。
  6. ^ a b 世界歴史大系 スペイン史1、奥野良知「18世紀のスペイン」, pp. 381-382
  7. ^ Smith 1965, p. 236.
  8. ^ Smith 1965, p. 237.
  9. ^ Harcourt-Smith, Simon (1955). "1-3". Cardinal of Spain: the Life and Strange Career of Giulio Alberoni (英語).
  10. ^ 世界歴史大系 スペイン史1、奥野良知「18世紀のスペイン」, pp. 386-387.
  11. ^ イタリア史 2008, 北原敦「十八世紀改革期からナポレオン改革期へ」, p. 310.
  12. ^ a b c d e f Kesaffer, Randall. "The 18th-century Antecedents of the Concert of Europe II: The Quadruple Alliance of 1718" (英語). 2020年1月22日閲覧
  13. ^ a b c d e f g 久保田 2001, pp. 229-230.
  14. ^ 世界歴史大系 フランス史2、二宮宏之, 柴田三千雄「十八世紀の政治と社会」, pp. 254-255.
  15. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Maine, Anne Louise Bénédicte de Bourbon, Duchesse du" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 432.
  16. ^ Prinet, Léon Jacques Maxime (1911). "Orleans, Philip II., Duke of" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 286.
  17. ^ a b Robertson 1911, p. 32.
  18. ^ Robertson 1911, p. 33.
  19. ^ Roberts 1947, pp. 13–18, 240–244.
  20. ^ Lesaffer, Randall. "The 18th-century Antecedents of the Concert of Europe I: The Triple Alliance of 1717". Oxford Public International Law (英語). 2020年1月22日閲覧
  21. ^ a b c Martínez Laínez & Canales 2009, p. 220.
  22. ^ Suárez Fernández 1984, p. 277.
  23. ^ "Quadruple Alliance" (英語). Encyclopædia Britannica. 2017年7月27日閲覧
  24. ^ Lafuente, Vol. 9.
  25. ^ a b c d e f Satsuma 2013, pp. 192–193.
  26. ^ Tucker 2010, p. 724.
  27. ^ Battle of Glenshiel@ads.ahds.ac.uk By A.H Miller. FSA Scot.
  28. ^ Smith 1965, pp. 215–218.
  29. ^ Lynch 2011, p. 349.
  30. ^ Capel Martínez & Cepeda Gómez 2006, pp. 217–218.
  31. ^ a b Russell 1826, p. 142.
  32. ^ Russell 1826, pp. 143–144.
  33. ^ a b Russell 1826, p. 145.
  34. ^ a b Bense 1999, p. 14.
  35. ^ Marley 1998, p. 242.
  36. ^ "Villasur Sent to Nebraska" (英語). Nebraska Studies. 2017年11月14日閲覧
  37. ^ Satsuma 2013, p. 234.
  38. ^ Albareda Salvadó 2010, p. 454.
  39. ^ Satsuma 2013, p. 200.


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