井筒 (能) 井筒 (能)の概要

井筒 (能)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/13 14:51 UTC 版)

井筒
作者(年代)
世阿弥(室町時代)
形式
複式夢幻能
能柄<上演時の分類>
紅入り鬘物、三番目物
現行上演流派
観世宝生金春金剛喜多
異称
なし
シテ<主人公>
井筒の女の霊
その他おもな登場人物
旅の僧(ワキ)、付近に住む男(間狂言)
季節
秋(9月)
場所
大和国石上、在原寺跡
本説<典拠となる作品>
伊勢物語の23段「筒井筒
このテンプレートの使い方はこちら

物語

本作は帰らぬ夫を待ち続ける女の霊を描いたもので、寂しさと喪失感に耐えながらなおも夫を待ち続ける美しい愛情が主題である。

伊勢物語の23段「筒井筒」を元に構成されており、前場で伊勢物語で描かれた夫との恋が懐かしく回想される。後場では寂しさの高じた女が夫の形見の衣装を身にまとい、夫への思いを募らせながら舞を舞う。これは(多くの場合)男性が女装して演ずる主人公が、更に男装する事を意味し、この男女一体の舞が本作の特徴である[注 1]

なお、題名の「井筒」とは井戸の周りの枠のことで、主人公の女にとっては子供の頃に夫と遊んだ思い出の井戸である。

伊勢物語の各段の主人公は在原業平と同一視される事が多いが、本作でもこれを踏襲し、主人公夫婦を業平とその妻(紀の有常の息女。以下、紀有常女)と同一視している。それゆえ本曲は業平の古今集の歌[注 2]や、業平の歌への古今集の評価[注 3]を曲中で用いるなど業平伝説を引用して本曲を作りあげている。

登場人物

  • 前シテ: 里の女(化身)
  • 後シテ: 井筒の女(霊)
  • ワキ: 旅の僧
  • アイ: 里の男

前場

それは物寂しい秋の日の事だった。旅の僧が大和国石上にある在原寺に立ち寄った。そこは昔、在原業平とその妻が住んでいた所だったが、今はもうその面影は無く、あたりには草が茫々と生えていた。在原寺はすでに廃寺になっており、業平とその妻との名残の井筒からも一叢のすすきがのびていた。

僧が業平夫婦を弔っていると、どこからともなく里の女(実は業平の妻の霊)が現れ、業平の古塚に花水を手向ける。僧が彼女に話しかけると、彼女は業平の妻である事を隠しつつも、想い出の井筒を見つめ、僧に促されるまま、業平と過ごした日々を語りだす。

彼女が言うには、業平は妻と仲むつまじく暮らしながらも他の女のもとにも通っていた[注 4]のだが、ひたむきに彼を待ち続ける妻の心根にうたれ、女のもとへは通わなくなったのだという(詳細は筒井筒参照)。「もっと業平の事を教えてください」、僧にそう促されると、彼女は業平との馴れ初めを語りだした。

「昔この国には幼なじみの男女がいました。二人は井筒のまわりで仲良く語り合ったり、水面に姿を移して遊んだりしていましたが、年頃になると、互いに恥ずかしくなり疎遠になってしまいました。しかしあるとき、男がこんな歌を女に送ったのです。

筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに
昔あなたと遊んでいた幼い日に、井筒と背比べした私の背丈はずっと高くなりましたよ。あなたと会わずに過ごしているうちに[4]

女は男に歌を返しました。

くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
あなたと比べあった、振り分け髪も肩を過ぎてすっかり長くなりました。その髪を妻として結い上げるのはあなたをおいてはありえません[4]

こうして二人は結ばれたのだという。 最後に彼女は自分が業平の妻(の霊)である事をあかし、どこへともなく去ってゆく。

(ここで片幕で舞台に登場していたアイの居語(いがたり)となる。間狂言の口から同様の物語が語られる。)

後場

その晩、僧が床につくと、夢の中に先の女が現れる。夢の中で彼女は、夫・業平の形見の衣装を着ていた[注 5]

業平を想い舞を舞うシテ
「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁

「昔あの人と暮らした在原寺で、こうして昔を今に返すように舞っていると、井筒に映る月影のさやかな事…」そうつぶやいた彼女の思いは次第に過去へと遡っていった。

「月はあなたのいらした頃の月と同じでしょうか、春はあなたのいらした頃の春と同じでしょうか…、そう詠みながらあなたを待ち続けたのはいつの事だったでしょうか…」

「筒井筒…」彼女は思い出の歌をくちずさむ。

「…井筒にかけしまろがたけ、生(お)いにけらしな…」そう詠んだ彼女は、自分がいつの間にか老(お)いてしまった事に気づかされる。

思い出の井筒に姿をうつす

彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃業平としたように、自分の姿を水面にうつす。そこに映るのは、女の姿とは思えない、男そのもの、業平の面影だった。

舞台は一瞬静寂につつまれる。

「なんて懐かしい…」そう呟いて、彼女は泣きくずれる。そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。

和歌

井筒では数々の和歌が引用されている。 まず前段、シテの女が僧に夫との想い出を話す中、女はむかし夫に詠んだ歌を回想する

伊勢物語23段「筒井筒風吹けば 沖つ白浪 竜田山 夜半にや君が ひとりこゆらん
風が吹くと沖の白波が立つ、ではないがその龍田山を越えて、夜道をあの人が一人でいくのが心配だなあ。[5]

そして「筒井筒」と「くらべこし」が詠まれたあと、女は去ってゆく。 後段、夫の直衣を身に着けて女が僧の夢の中に現れたとき、帰らぬ夫を待ち続けた頃に詠んだ歌を思い出す

伊勢物語17段
徒なりと 名にこそ立てれ 櫻花 年に稀なる 人も待ちけり
風にすぐ散ってしまう桜は不実だと言われていますが、一年のうち滅多に来ないあなたをもちゃんと待ってこのようにきれいに咲いているのですよ。私の事を不実だとおっしゃるけれど、あなたのほうがよほどそうです。[6]

こう詠んだ為、自分は「人待つ女」とも呼ばれたのだと語る。 そして「筒井筒の昔から「真弓槻弓年を経」た今、夫の真似をして舞いを舞ってみよう」と呟いて舞いはじめる。(24段の物語の詳細は「解釈」の節を参照)

伊勢物語24段
梓弓 真弓槻弓 年を経て 我がせしがごと うるはしみせよ
誰が夫でもよい。その人と長い年月連れ添って、わたしがあなたをいとしんだように、新しい夫と仲よくしなさい[7]

月の光に照らされながら舞っているうちに女は「「月やあらぬ 春や昔」と詠んだのはいつのことだろうか」と呟く。

伊勢物語4段
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
月は昔と同じ月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか。あの方のいらっしゃらない今、一人で眺める月も過ごす春も、去年とは違うように感じられるが、私だけは今もあなたを想い続けている[8]

こうして待つ事の辛さを詠んだ歌が回想された後、最後に再び「筒井筒」の歌が詠まれ、「生(お)いにけらしな」という言葉から自分が老いてしまった事に気付く。 そして彼女が想い出の井筒をのぞきこむと、そこに夫の面影を見出し、泣きくずれるのである。


  1. ^ a b c 日本古典文学全集、『謡曲集(1)』
  2. ^ a b c d e f g 世阿弥』、第二章「世阿弥の作品」「物着と複式夢幻能-井筒」の節。位置1691から(kindle版)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 能を読む-2 世阿弥』 p45
  4. ^ a b 現代語訳は『井筒 (対訳でたのしむ) 』p.14より
  5. ^ 現代語訳は『井筒 (対訳でたのしむ) 』p.13
  6. ^ 現代語訳は『井筒 (対訳でたのしむ) 』p.17
  7. ^ 現代語訳は「現代語訳 竹取物語 伊勢物語」より。
  8. ^ 現代語訳は『井筒 (対訳でたのしむ) 』p.20
  9. ^ a b 飯塚 p34
  10. ^ 飯塚 p40
  11. ^ a b c d 飯塚 p43-44
  12. ^ a b c ぬえの能楽通信blog』「『井筒』~その美しさの後ろに」その2
  13. ^ a b c d e 池畑 p115-116
  14. ^ the能.com、ストーリーpdf、p9
  15. ^ 八嶋正治『「井筒」の構造』1976。池畑 p115-116より重引
  16. ^ 堀口池畑 p115-116より重引
  17. ^ 西村聡『「人待つ女」の「今」と「昔」-能「井筒」論』(1980)。池畑 p115-116より重引
  18. ^ a b 能を読む-2 世阿弥 p.54
  19. ^ the能.com、ストーリーpdf、p2
  20. ^ 「能へのいざない」
  21. ^ a b 井筒 (対訳でたのしむ) 』p22収録「<井筒>の舞台」。観世流シテ方・河村晴久。
  22. ^ 飯塚2 pp.87-88.
  23. ^ 飯塚2 p.89
  24. ^ 玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 2007年 > 能面「深井」”. 2020年8月15日閲覧。
  25. ^ a b c d 中村1974 p.231上段および『<井筒>の主題と<幽玄>』(1976年)。飯塚2p83、池畑 p116および金p4より重引。
  26. ^ 池畑 p116
  27. ^ a b c d 堀口、p.195。飯塚2 pp.83-84より重引。
  28. ^ a b 伊藤飯塚2 pp.83-84より重引。
  29. ^ 飯塚2 pp.83-84
  30. ^ a b 八蔦正治『世阿弥の能と芸論』昭和60年11月発行 三弥井書店 484頁。飯塚2 p.85より重引
  31. ^ a b c d 西村 p106。飯塚2 p.85より重引
  32. ^ 飯塚2 p.85
  33. ^ a b c 飯塚2 pp.85-86.
  34. ^ a b c d e 飯塚2 p.92.
  35. ^ a b c d the能.com、詳細データ
  36. ^ a b c d e f 粟谷能の会
  37. ^ a b ぬえの能楽通信blog』「『井筒』~その美しさの後ろに」その3
  38. ^ 在原神社(在原寺跡)”. 天理観光ガイド・天理市観光協会. 2020年8月15日閲覧。
  39. ^ a b c d e f g 井筒”. 大槻能楽堂. 2030年8月17日閲覧。
  40. ^ a b 井筒”. 能サポ. 2020年8月15日閲覧。
  41. ^ 「日本古典文学全集、謡曲集(1)」
  1. ^ 女のシテが男装する趣向は他にも『杜若』、『卒都婆小町』、『鸚鵡小町』などで見られる
  2. ^ 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
  3. ^ 「在原業平は、その心余りて、詞たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」の「しぼめる花の色なくて匂ひ残」の部分
  4. ^ 当時は妻問婚だった為、これは普通の事であった。
  5. ^ 「業平の霊が衣を通して乗り移ったと考えられる」[2]
  6. ^ a b 「品格をたたえながらも虚ろな瞳と口元が悲哀に満ちた心の内を表現」[24]した中年女性の面
  7. ^ 現在の奈良県天理市
  8. ^ 業平建立と伝えられる寺。明治時代の廃仏毀釈以降「在原神社」になった[38]





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「井筒 (能)」の関連用語

井筒 (能)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



井筒 (能)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの井筒 (能) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS