井筒 (能)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/13 14:51 UTC 版)
解釈
人待つ女
本曲の後場の詞章
徒なりと名にこそ立てれ櫻花。年に稀なる人も待ちけり。かやうに詠みしも我なれば。人待つ女とも云はれしなり。 「徒なりと名にこそ立てれ櫻花。年に稀なる人も待ちけり」。このように詠んだのも私であり、それ故に「人待つ女」とも言われた[14]
に登場する「人待つ女」という語が古注に典拠を持つ事が1960年代に分かると、八嶋正治[15]、堀口廉生[16]、西村聡[17]といった研究者が「人待つ女」としての「不変の愛」で、「業平を一心に恋い慕う」、「純真さ」が強調され、こうした論考に沿った解釈が多数派を占めるようになり[13]、この「人待つ女」を本曲の主題とみなすのが有力となった[18]。ただし、「人待つ女」を本曲のごく一部の装飾とみなす立場も存在する[18]。
なお本曲において「待つ」という語が登場する箇所はもう一つあり、それは前場冒頭で紀有常女が自身の境遇を嘆いて独りごちる下記の場面である。
忘れて過ぎし古を、忍ぶ顔にて何時までか待つ事なくて存へん 私も忘れていたはずの昔を、いつまでも偲んでいるありさまだけれど、ずっと人を待ち、こんな風に過ぎて行くのだろうか[19]
こうした「人待つ女」を重視する解釈に従えば、本曲は例えば以下のように理解できる。まず伊勢物語の筒井筒の物語で、女は縁談を断って愛する男を待ち続け、結婚後も浮気する夫の帰りを待ち続けている。それゆえ能の井筒では筒井筒の物語を、愛する夫を待ち続ける物語として再解釈していると解され[20]、待ち続ける辛さや喪失感を詠った和歌がいくつか追加されている。(和歌の節参照)
また井筒は時間の流れと逆順に構成されており、夫の死後の弔いから始まり、浮気する夫を待ち続けた話へと向かい、そして最後に物語の核心である夫との馴れ初めへと向かう[21]。これにより物語は「夫への一途で純粋な恋の思いへと集中」[21]してゆく。
一方で飯塚恵理人は、『冷泉家流伊勢物語抄』や『伊勢物語知顕集』といった古注を参考に、本曲が作られた当時、「人待つ女」が今日のように帰らぬ業平を「待ち続けた女」の意ではなく「待ち得たる女」(待った結果、業平が帰ってきた女)と解釈されていたと考証し[22]、その傍証として古注の他の段を参考にする事により、当時の紀有常女像は「業平の幼ななじみであり、生涯に渡った「正妻」であり、お互いに浮気をして疎遠になったこともあったが、歌を媒介として愛情を回復し、業平と添い遂げた女性」[23]というものであった事を考証している。
なお、室町末期の装束付には上述したいずれの解釈とも大きく異なるものがあった事が中村格により指摘されている。中村によれば前ジテに「深井」[注 6]の面をかけ、後ジテに「十寸髪」(逆髪)の面をかけ、「序の舞」の前のセリフのところに「カケリ」を入れ場合によって「序の舞」も除き「カケリ」を演じることもあったという[25]。
逆髪もカケリも狂気の女性に使われる演出であり[26]、「狂う陶酔の姿態を現出せしところを眼目にした」曲味を窺わせ[25]、それゆえ「今日の可憐に美化された曲趣としてではなく、より根元的な、人間の情念・ 罪業の深さとでもいうべきところから発想した曲として受容されていた」のではないかと論じている[25]。
真弓槻弓年を経て
本曲では伊勢物語24段から「真弓槻弓…」の歌の一部が引用されており、前述のように古注では24段の主人公夫婦は業平と紀有常女の二人と同一視されているため、24段がどの程度本曲に影響を与えているかが議論となる。
そのためにまず24段の内容を簡単に振り返ると、次のような話である。主人公の女は都に宮仕えにいったまま音沙汰がなくなった夫を待ち続けたが、3年後、ついに諦めて別の男の元へと嫁ぐ事にする。しかし嫁ぐ事が決まった日に夫が帰ってくる。事情を察した夫は身を引いて去ってしまった為、女は夫を追いかけるが、追いつく事ができないまま力尽きて死んでしまう。
こうした事実から堀口廉生は、世阿弥時代には伊勢物語の紀有常女は業平を待つ続け、その結果死んだのだと理解されていたと指摘し[27]、堀口は24段の女は「「待つ女」として「井筒」に形象され」[27]、本曲における「死してなお業平のおとずれを待って、みすがら形見を着して舞う女の姿を理解するには、やはり、第二四段の「待つ女」の悲しい運命を、 その一助とすべきであろう」[27]として悲劇的な紀有常女像を提唱した[27]。
また伊藤正義も「『伊勢物語』二三段を中心に、一七段、二四段の話を合わせて作られている」[28]とし、23段の筒井筒の物語の後、24段にあるように「三年間の空白を桜とともに待ち。三年目の夜、業平を追って、追い続けて息絶える」のだとし、本曲の背後には、「「有常娘物語」とても言うべき、有常娘の一代記の物語が存在するのではないか」[28]と主張した。
「この「井筒」の背景にある有常娘像は「業平を待ち続けたにもかかわらず、二人の結婚は結局のところ破綻し、死にいたるまで業平にかえりみられなかった」と言うものになり、『井筒』のシテは、このようにして死んだ過去の亡霊として業平を「待ち続け」たまま、舞台の在原寺に登場することとなる」[29]。
一方、八寫正治[30]や西村聡[31]は本曲に24段の世界が投影されていると考えがたいと論じており[32]、その根拠は「24段の悲恋の面影が「井筒」に於いては全く用いられぬ」事[30]、24段の「真弓槻弓」の歌の一部しか本曲に引用されていない事[31]、「男の歌であって女の歌でない」事[31]、「二十四段の女主人公が夫に去られて死んでしまうことで、そのような劇的な、それだけで一つの戯曲が成り立つ展開を、引用された歌の一部に読み取ってよいのだろうか」という事[31]である。
それに対し飯塚恵理人[33]は、世阿弥当時の伊勢物語の解釈である古注の『十巻本伊勢物語抄』、『伊勢物語知顕集』、『伊勢物語愚見抄』を参考に、こうした見解に異論を唱えている。飯塚によれば、伊勢物語24段に出てくる(24段の女が)「いたづらになる」という語が通常の古文での意味「死んでしまった」ではなく、古注では「痛ましい顔になった」というふうに解説しており、24段は女の最期を語ったのではないと解釈されていたとする[33]。同様に「真弓槻弓…」も有常娘に復縁をせまった歌と解釈されており、現在のように新しい相手と親しむように求めた歌だと解釈されていたわけではない[33]。
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おいにけるぞや
シテ「筒井筒」 地謡「筒井筒 井筒にかけし」 シテ「まろが丈」 地謡「生ひにけらしな」 シテ「おひにけるぞや」
本曲の末尾付近にある上記の詞章の「おひにけるぞや」の解釈が分かれている。
表章は「おひにけるぞや」を「老いにけるぞや」と校訂し、この詞章を「「生ひにけらしな」と詠んだのだったが、そうした若い頃も過ぎ、やがては年老いてしまったのであったよ」[34]という風に紀有常女の老いの嘆きと解釈した[34]。
一方、伊藤正義は、「おひにけるぞや」を「生ひにけるぞや」と校訂し、この詞章を「もう大きくなったようだよ、お互いに一人前の大人になったんだね、という、最も幸せだった時の回想であるべきで、ここに老いへの詠嘆の意はあるまい」[34]と、業平と紀有常女の「お互いに生長した時期の回想」[34]と解釈した。飯塚恵理人も、業平(に移り舞した紀有常女)が元服後の冠を被ってると解される事、他に老いを示す詞章が無い事などからこれを支持している[34]。
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- ^ a b c d e f g h i j k l 『能を読む-2 世阿弥』 p45
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- ^ a b 『ぬえの能楽通信blog』「『井筒』~その美しさの後ろに」その3
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- ^ a b c d e f g “井筒”. 大槻能楽堂. 2030年8月17日閲覧。
- ^ a b “井筒”. 能サポ. 2020年8月15日閲覧。
- ^ 「日本古典文学全集、謡曲集(1)」
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