世襲貴族 大陸貴族との違い

世襲貴族

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大陸貴族との違い

英国貴族は大陸の貴族と違い法的な特権がほとんどなかった。行政・軍事における高級の地位が保障されることはなく、土地所有について税金を支払い、権利争いにおいては所有地内で暮らしている者から起訴されることもあった[174]

イギリスは一方で強固な階級関係を維持しながら、その階級関係は固定的ではなく財産の上昇や下降で変わっていく流動的なものだった。特に「紳士」(ジェントルマン)という高度に階級的な表象は、やがて社会の最底辺まで下降するだけの流動性を有していた[175]

旧体制フランスの貴族は自分たちの特権に固執したので閉鎖的なカーストとなり、その結果フランス革命で破局を迎えることになるが、英国貴族や紳士は貧民の保護を自らの義務・名誉と心得ていたので積極的な慈善事業を行ったし、特権も適時に徐々に手放したので、閉鎖的なカーストとならず、むしろ無限に社会の底辺にまで広がっていた。「労働貴族」(熟練労働者が未熟練労働者と徒弟に対してあたかも貴族であるかのように教育と保護の義務を負う)の概念はそれを象徴する。19世紀フランスの歴史家フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンアレクシ・ド・トクヴィルイポリット・テーヌらがそろってイギリス貴族制を「義務・責任を負った貴族制」(ノブレス・オブリージュ)として羨望と賞賛の言葉を送っている所以である[176]

貴族の長男以外の子女について

「ヤンガーサン」

イギリス貴族の次男以下の息子は「ヤンガーサン (younger son)」と通称される。あるいは「カデット (cadet)」と呼ばれることもある[177]。爵位を継承できるのは長男 (eldest son)だけなので、ヤンガーサンは兄が男子なく死んで爵位を継承するか、自身が新規に爵位を与えられない限り平民である[178]。また財産面でもイギリス貴族は、長子相続制 (primogeniture)と限嗣相続制 (entail)によって長男のみが爵位と屋敷と土地を相続する制度をとっており、貴族の土地は相続時の契約で分割不可能であるため、ヤンガーサンに分け前はない[43][179]。これは貴族の土地の細分化を防ぐ意味があった[175]

ヤンガーサンにも長男と同じような教育が与えられたが、長男のように土地収益で生活することはできないので、大人になると何らかの職業に就いて生計を立てることが要求された[180]。ヤンガーサンが就いた主な職業は「専門的職業」(professions)が多く、たとえば陸海軍士官、外交官、聖職者、法廷弁護士 (barrister)などである。金融や貿易に携わる者もあった[181]。ヤンガーサンは名誉称号以外は一般の紳士とほぼ変わりない存在だったといえる[175]。しかし陸軍将校や聖職者になるのはコネと金が重要だったのでヤンガーサンはそうした地位を得やすく、親や親族に用意してもらうのが一般的だった[182]

これは土地収益で暮らす「アッパー・クラス」に生まれ育ちながら、大人になると誰かから報酬をもらって生活する「ミドル・クラス」に落ちるということでもある。このことを指して歴史学者ローレンス・ストーンとジャンヌ・C・フォーティヤ・ストーンは、イギリス貴族のヤンガーサンはヨーロッパと違って常に階級的に「下に移動」したと表現する[183]。歴史研究者ローリー・ムーアは「これらの職業に就いた良い家柄のヤンガーサンのほとんどは社会階層が下がるわけだが、一方でブルジョワの息子たちは、自分たちの父親より高い地位(社会的な意味であって、必ずしも経済的に高くなるわけではない)を手に入れてそれを守っていくことを試みた」とし、それにより貴族のヤンガーサンとブルジョワの息子は、摩擦を抱えながらも出自を超えた仲間意識、職業への集団的な帰属意識を持つようになり「アッパー・ミドル・クラス」と呼ばれる階級を形成したとする[183]

貴族の長男とヤンガーサンではあまりに財産や地位が違いすぎるため、ヤンガーサンは社交界において貴婦人から避けられる存在だったという[178]。そのため「アッパークラス」の女性との結婚は難しく、多くの場合「ミドルクラス」から妻をもらうことになった[184]

一方でヤンガーサンは爵位や財産がなくとも、親や祖父母から貴族的な言葉遣いや慣習を叩きこまれているために「アッパークラス」との密接な関係者であるという自負心を持つ者は多かった[185]。ヤンガーサンには身を立てようと勉学に励む者も多く、政治家、軍人、法律家、学者、植民地行政官などになって18世紀から19世紀大英帝国の繁栄を支えたといわれる[43]

なお19世紀のヨーロッパ大陸では長子相続制・限嗣相続制が多くなかったため、土地の分散化問題が起こったし、爵位が長男以外にも与えられることから貴族インフレが起きて爵位の価値も低下した。対してイギリス貴族は、ヤンガーサンを「ミドルクラス」に送り込むことによって土地財産を維持するとともに爵位を価値ある物として続かせることに成功し、ヨーロッパ貴族の中でも稀有な存在となった[186]

公爵家と侯爵家のヤンガーサンは「ロード(Lord, 卿)」の儀礼称号をファーストネームに対して使用できる(あくまで儀礼称号にすぎず、身分は平民である)。伯爵家のヤンガーサンと子爵・男爵の息子(長男含む)は「ジ・オナラブル(The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる[187][188]

貴族の令嬢

ルコンフィールド男爵家の令嬢(三姉妹)を描いた絵画。 (作・J.S.サージェント

前述のとおり一部の例外的な爵位を除いて原則として女子は爵位を継承できない。また財産面でも長子相続制と限嗣相続制により、まず長男、それが絶えれば次男、息子の血筋が全て絶えれば、男系血筋で最も近い男性親戚が相続するため、女子が分け前を得られる可能性はヤンガーサン以上に低い。女子は結婚により他家に入ることになるので、他家に財産を持っていかれるのを防止するため女子には財産を渡さなかった[189]。「息子ができず、娘しかいない貴族家は爵位も土地も財産もすべて遠縁の親戚男子に渡ってしまう。」この現象は1831年のジェーン・オースティン著『高慢と偏見』から2010年代のドラマ『ダウントン・アビー』に至る迄19世紀から20世紀の英国を描いた作品でよく描かれるところである[189]

貴族の娘たちは勉強部屋を出る年になると社交界デビューした[190]。おおむね17歳から18歳ぐらいの頃である[191]。社交界にでたばかりの未婚女性をデビュタントと呼ぶ[192]。一般に正式なデビューとみなされるのは、王宮での初拝謁 (presentation at court)である。母親か既婚の親族女性により王室に紹介されることであり、この儀式を経て一人前の淑女と認められるようになった[193]

貴族令嬢の社交活動で最も重要なのは結婚相手を見つけることである。それは貴族社会では常識だったから、母親や叔母、既婚の姉などがカントリー・ハウスのスクール・ルームという閉ざされた世界から出たばかりの娘の相手を見つけるために尽力し、いくつものカントリーハウスを回ったり、パーティーを開いて知人の中から適当な独身男性をかき集めるのである[194]。土地と屋敷と財産を独り占めにできる爵位持ちかその長男が相手として理想だが、そうした者は希少なので貴族令嬢たちの間で取り合いが激しかったという[195]。財産を相続できないヤンガーサンは嫌われて避けられたという[178]

社交界にデビューして半年の間に申し込みがなければ、次の社交シーズンまで待つ必要があるが、社交シーズンが三度過ぎても申し込みがないと魅力のない独身女性となる危険性が高まる。第二次世界大戦前ならば、そうなる前に最後の手段として植民地インドへ行って植民地行政官と結婚するパターンがあった[196]

伯爵以上の貴族令嬢は「レディ(Lady, 嬢)」、子爵以下の貴族令嬢は「ジ・オナラブル(The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる[187][188]

日本と英国貴族

チャッツワース・ハウス前の庭園の噴水
  • 明治5年9月28日(1872年10月30日)、シェフィールド市の鋼製品工場見学を終えた岩倉使節団は、同市から西に10キロの場所にある第7代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語版の邸宅チャッツワース・ハウスを訪問した[197]。公爵の案内で邸内を見て回り、久米邦武は「我々の回った各部屋の中は周りの壁、天井や床などそれぞれ見事な出来で、繊細な彫刻や美しい彩の装飾画を施したりしてある」[198]「どこもかしこも目を見張るばかりである」[199]とその美しさに感嘆している。また庭園にある階段式の滝(カスケード)や邸宅前の噴水について「(西洋では)いろいろと水の不思議な仕掛けを見ることが多い。しかし、まだ、この庭園の滝を超えるようなものは見たことがなかった」「(カスケードの終着点から)百数十歩先の屋敷の前の池から数十筋の噴水となって吹き上がっている。この噴出の勢いの強さは、水晶宮の噴水も及ばないほどである」と感嘆している[200]
  • 日本人の志村寿子(マークス寿子)は、イギリスで働いていた1976年に第2代マークス男爵マイケル・マークスと結婚した。マークス男爵にとっては3度目の結婚だったが、1985年に離婚した。二人の間に子供はなかった[201][202]。マークス寿子はアメリカ文学者志村正雄の妹であり、自身も日本と英国に関する著作が複数ある。
  • 日本の京都府出身の在日韓国人マイコ・ジョン・ソン・リー英語版(Maiko Jeong Shun Lee、韓国名이정선)は、1993年に第3代ロザミア子爵ヴィアー・ハームズワースと結婚した。ロザミア子爵にとっては再婚だったが、二人の間に子供はなかった[203][204]。彼女は在英韓国大使館が進めていたイギリス軍の韓国戦争参戦記念碑をロンドンに建立する計画に協力し、55万ポンドの寄付を行って2013年に実現させた。韓国の中央日報は彼女について「英国唯一の韓国人貴族」と表現している[205]
  • 第2代スカーズデール子爵リチャード・カーゾン英語版の三女ジュリアナとジョージ・スタンリー・スミスの間の次女であるベニシア・スタンリー・スミス[206]、1971年(昭和46年)に来日し、写真家梶山正と結婚。京都市大原に在住して自家栽培のハーブや四季の草花を活用した暮らしをエッセーで紹介し、NHK番組「猫のしっぽ カエルの手」の出演で有名になった。彼女は2023年(令和5年)6月21日に京都市の自宅で死去した。72歳だった[207]

注釈

  1. ^ ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、1254年ヘンリー3世在位:1216年 - 1272年)が皇太子エドワード(エドワード1世)に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている[4]。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号であるコーンウォール公爵位よりも上位に書かれる[5]

出典

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