レディスミス・ブラック・マンバーゾ レディスミス・ブラック・マンバーゾの概要

レディスミス・ブラック・マンバーゾ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/15 09:01 UTC 版)

レディスミス・ブラック・マンバーゾ
Ladysmith Black Mambazo
レディスミス・ブラック・マンバーゾ(2006年)
基本情報
別名 Ezimnyama (The Black Ones)
出身地 南アフリカ共和国 クワズール・ナタール州レディスミス
ジャンル イシカタミアムブーベ
活動期間 1960年-1964年(前身)
1964年-現在(レディスミス・ブラック・マンバーゾ)
公式サイト www.mambazo.com
メンバー Joseph Shabalala
Thamsanqa Shabalala
Sibongiseni Shabalala
Thulani Shabalala
Msizi Shabalala
Albert Mazibuko
Abednego Mazibuko
Russel Mthembu
Ngane Dlamini
旧メンバー Jockey Shabalala
Jabulani Dubazana
Inos Phungula
Ben Shabalala
Geophrey Mdletshe
Headman Shabalala
Milton Mazibuko
Funokwakhe Mazibuko
Joseph Mazibuko
Walter Malinga
Matovoti Msimanga

歴史

ジョセフ・シャバララは、夢の中で聞いたイシカタミアズールー人の伝統的な音楽)のハーモニーに影響されて、1964年にレディスミス・ブラック・マンバーゾを結成した。グループは結婚式やその他の集会などで評判を得て、イシカタミアの大会に参加した。大会では彼らはとても高評価を得すぎたため、その後優勝資格は失われたものの、演奏自体は人々を楽しませるために歓迎された[2]。彼らは1964年にイシカタミアのグループと認められたが、1950年代初期から一緒に歌っていた。そして、1973年に1stアルバム『Amabutho』を発表した。このアルバムは、その後に数多くリリースした作品と同様、ゴールドディスクを記録した[3]。1986年のポール・サイモンとレディスミス・ブラック・マンバーゾの共演は、彼らレディスミス・ブラック・マンバーゾが世界的に知られる道を開くことになった。

1960年から1986年まで

レディスミス・ブラック・マンバーゾの前身は、「Ezimnyama (The Black Ones)」で、1960年12月にシャバララにより結成された。グループのメンバーは、シャバララの親類(兄弟や従兄弟など)で、彼らは同じ農場で一緒に歌っていた。彼らは conthoza(イシカタミアを表す1960年代のスラング)やムブーベを歌ってはいたが、まだレディスミス地区の外では知られていなかった[4]

1964年にシャバララは6ヶ月間、夢の中で完璧なハーモニーのコーラスを繰り返し聞いていた[5]。この美しい夢できいた音楽はまだ彼のグループでは実現できていないと感じていた。そして、シャバララはグループをレディスミス・ブラック・マンバーゾという名前に改良し、夢で聞いたハーモニーをメンバーに教えた。グループ名は、彼の故郷であるレディスミス、黒毛の雄牛(最も強い家畜)、マンバーゾ(ズールー語で斧の意味)からつけられた。シャバララはダーバンヨハネスブルグイシカタミアの大会にグループで参加し、開催されたほとんどの大会で優勝したため、1973年まで彼らは他のグループとの競争は禁止された。ただし、大会での演奏自体は自由だった[6]

1967年に Radio Zulu でレコーディングを始め、1972年にはウェスト・ンコーシ(ンコーシはサックス奏者として南アフリカでは有名だった)とプロデューサー契約を結んだ。レディスミス・ブラック・マンバーゾはその翌年、1stアルバム『Amabutho』を発売した。このアルバムは南アフリカの黒人のミュージシャンでは初めてとなるゴールドディスクを記録した。彼らのそれ以降のアルバムも、ゴールドディスクかプラチナディスクを記録していった[7]。彼らは2ndアルバムより、プロのアーティストとなった[8]

1975年にシャバララはキリスト教に転向した。その後すぐにグループにとって最初の宗教的なアルバム『Ukukhanya Kwelanga』を発表した。このアルバムの収録曲は、賛美歌(ほとんどがメソジスト)が占めており、前回の倍であるプラチナディスクを記録した。1976年のLP『Ukusindiswa』は最も人気のある宗教的なアルバムの1つとなり、発売わずか3週間でダブル・ゴールドディスクを記録した[7]。1981年、アパルトヘイト政府が、南アフリカ音楽祭の一部をドイツ・ケルンで行わせる形に結果的にしており、このグループは人気を得ていた[9]。グループは西ドイツで巡業・テレビ出演を行い、ドイツ語の学習をした。1981年にグループが発表したアルバム『Phansi Emgodini』に収録するため、シャバララは「Wir Grussen Euch Alle」という曲を書いた。翌年もテレビのクイズ番組に出演するためグループはドイツへ行き、より多くの人気を得た[9]コンピレーション・アルバムの草分け的なアルバム『The Indestructible Beat of Soweto』に、グループのトラックが収録された。

1986年から1993年まで

1985年、アメリカ人歌手のポール・サイモンはアルバム『グレイスランド』をアフリカのミュージシャンとの制作を希望して、南アフリカへ渡った。サイモンはシャバララと会って議論を交わした後、グループはサイモンがレコーディングをするロンドンへ向かった。最初にレコーディングした「Homeless」は、コーラスはサイモンの作曲だが、他はシャバララとの共作で、導入部からメイン部分まではズールー語で英語ではない(なお、レディスミス・ブラック・マンバーゾの1986年のアルバム『Ezulwini Siyakhona』のライナーノーツに、サイモンとの出会いが書かれている)。『グレイスランド』は1986年後半に発売され、南アフリカへの文化的ボイコットをジョセフ・シャバララとポール・サイモンが妨害したとして批判されたが[10]、アルバムは1600万枚を販売する巨大なヒットとなり[11]、さらにレディスミス・ブラック・マンバーゾが世界的に知られる効果をだした。また、スティメラやマハラティーニ・アンド・ザマホテラ・クイーンズ等の他のアフリカのアーティストが西側の人々に人気を得るきっかけをつくった[12]

『グレイスランド』の後、サイモンをプロデューサーとしてグループは3枚のアルバム(『Shaka Zulu』(1987年)、『Journey of Dreams』(1988年)、『Two Worlds, One Heart』(1990年))をアメリカ向けに出した。また、アルバムではワイナンズ、ジュリア・フォーダムジョージ・クリントンといった人気アーティストとの共演もした。

1988年、マイケル・ジャクソンの映画『ムーンウォーカー』のエンディングで、レディスミス・ブラック・マンバーゾの「The Moon Is Walking」(「Lindelani」の短縮バージョン)が使用された。セサミ・ストリートの曲「Put Down The Duckie」でもレディスミス・ブラック・マンバーゾはフィーチャーされた。

1991年12月10日、シャバララの弟で低音を担当するメンバーであるヘッドマン・シャバララは、白人の非番の警備員に射殺された。ポール・サイモンは、事件の根底には人種差別が原因にあると裁判で証言した[13]。ジョゼフ・シャバララはショックのため歌うのを止めてしまった。しかし、クリスチャンである思いから、彼は歌の世界に復帰した。1993年、脱退した3人のメンバーの代わりに、シャバララは自分の息子4人をグループに加入させた[14]

1993年から2002年まで

アパルトヘイト制度は1991年に廃止された。ネルソン・マンデラが27年の投獄生活から釈放されたことを祝福して1993年にアルバム『Liph' Iqiniso』を発表した。このアルバムの最終トラック「Isikifil' Inkululeko (Freedom Has Arrived) 」は、アパルトヘイトの終了を賛美した曲である[15]

ネルソン・マンデラが釈放された直後にレディスミス・ブラック・マンバーゾのメンバーは南アフリカの文化的な大使であると公式に述べたと、シャバララは言っている[16]。レディスミス・ブラック・マンバーゾは、1993年にオスロで行われたノーベル平和賞授賞式に、将来の南アフリカ大統領に同行した。レディスミス・ブラック・マンバーゾは、1994年5月のマンデラ大統領の就任式でも再度歌った[17]

1997年、ハインツのテレビコマーシャルのために、グループは「Inkanyezi Nezazi (The Star and the Wiseman)」の短縮バージョンをレコーディングした。オリジナルバージョンは1992年にレコーディングされたものだが、1998年発表のベストアルバム『The Best of Ladysmith Black Mambazo - The Star and the Wiseman』にも収録され、アルバムはイギリスだけで100万枚売れるヒットとなり、トリプル・プラチナを記録した[18]。また、全英アルバムチャートで最高2位を記録している[19]。このハインツによる成功は、イギリスに何度も招待されテレビやラジオで演奏したり、イギリス王室の前で演奏することまで発展した。2001年、グループは「ファミリー・ガイ」などのアニメ作品に登場した。

2002年から2006年まで

2000年に『Lihl' Ixhiba Likagogo』を発表した後、グループは2002年に発表するアルバム『Wenyukela』の制作に取り掛かっていた。しかし、2002年5月、シャバララと30年間連れ添ってきた妻ネリー(Women of Mambazo のリードシンガー)が教会の駐車場で覆面の銃撃者に殺害されるという出来事が発生し、レコーディングどころではなくなってしまった。シャバララ自身も、妻を助けようとして手を負傷した[20]。ジョセフの息子ビビアンは、継母ネリーを殺害するために殺し屋を雇ったとして、逮捕された。もしビビアンの父(ジョセフ)が殺人に関係していたら南アフリカ警察は執行猶予にしたのではないか、とビビアンは証言した[21]

シャバララが復帰しはじめたので、『Wenyukela』の制作は進んだ。「Wenza Ngani? (How Did You Do That?)」など、人種差別などの道徳的なテーマを含んだ曲を収録している。他の収録曲「Fak' Ibhande (Don't Drink and Drive)」は、飲酒運転の危険性を警告している。「Wenyukela」はイエス・キリストの復活と、1994年の南アフリカの改革をテーマに[22]。「Selingelethu Sonke」はアフリカで公正取引を求めた曲。グループはオックスファムのキャンペーンで公正取引問題について語った[23]

南アフリカで『Wenyukela』が成功した上で、2003年3月にイギリスでも同アルバムが発売された。アルバムは繰り返し成功し、2004年1月にはアメリカで発売された。アメリカでのリリースは、ダブル・プラチナを記録し[24]、2回目のグラミー賞の受賞をもたらした。そして3ヶ月の全米ツアーを行った。

2005年に発表したアルバム『No Boundaries』では、イギリス室内管弦楽団と共演したクラシック・スタンダード(「Jesu, Joy of Man's Desiring」、「Ave Verum Corpus」)やマンバーゾの曲(「Homeless」、「Awu, Wemadoda」、「Ngingenwe Emoyeni」)が収録された。ヨーロッパの伝統とズールーの文化を融合することについて最初は心配されていたのにもかかわらず、アルバムは非常に売れて[25]グラミー賞にもノミネートされた。

2006年から2008年まで

レディスミス・ブラック・マンバーゾ(2006年)

レディスミス・ブラック・マンバーゾ45周年記念となるアルバム『Long Walk to Freedom』は、2006年1月24日に発表された。アルバムでは南アフリカのミュージシャンの他に、ザップ・ママサラ・マクラクラン、メリッサ・エスリッジ、ジョー・マクブライド、ナタリー・マーチャント、エミルー・ハリスタジ・マハールらと共演している。そしてレディスミス・ブラック・マンバーゾは、もう1度ポール・サイモンと共演したいとの意思を表した。それは『グレイスランド』から20年後だった[26]

アルバムのプロモーションのため、2006年1月から2月にかけ、マンバーゾは様々なテレビ・ラジオ番組に出演した。また、アメリカ・カナダ専用のファンクラブもつくった[27]

2006年4月、マンバーゾはジョシュ・グローバンの3rd.スタジオアルバム『Awake』、グローバンと共演した。その曲は「Weeping」と「Lullaby」で、純粋な南アフリカ音楽の影響を特徴としている。2006年8月には、マンバーゾはメイヴィス・ステイプルズの新しいアルバムのために、ステイプルズと共演した[28]。マンバーゾが全米ツアーを行っている間、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」でレディスミス・ブラック・マンバーゾをパロディ化した漫画「Ladysmith Black Mambazo in Outer Space」が出演された。そのDVDが発売されたとき、グループのメンバーは短いコメントを加えている[29]

2006年10月17日[30]、レディスミス・ブラック・マンバーゾはニューヨークでスペシャル・コンサートを開催した。コンサートには、サラ・マクラクラン、ナタリー・マーチャント、マホテラ・クイーンズ、ヴーシー・マーラセラ、ピート・シーガーが特別ゲストとして出演した。コンサート前夜(10月16日)、マホテラ・クイーンズはア・カペラのコンサートを開催した。

ボブ・サンクラーことアフリカニズムの 3rd.ミックス・アルバムには、レディスミス・ブラック・マンバーゾの1985年の曲「Isala Kutshelwa」が「Steel Storm」という曲で使用された。アルバム『Long Walk to Freedom』は、2007年の第49回グラミー賞に2部門で再びノミネートされた。それは最優秀コンテンポラリー・ワールドミュージックと、最優秀サラウンド・サウンド・プロダクションだったが、どちらも受賞はできなかった。

レディスミス・ブラック・マンバーゾのアルバム『Ilembe』は、2007年2月26日に南アフリカで発売された。その後同年4月2日にタイトルを『Ilembe - Our Tribute to King Shaka』に変えてイギリスで発売された。アメリカでは『Ilembe: Honoring Shaka Zulu』というタイトルで、2008年1月22日に発売された。

2008年以降

グループ創設者かつディレクター・作曲者・リードシンガーを兼ねるジョセフ・シャバララが、いつ引退するのかという多くの質問が発生している。それに対し、2008年1月23日にシャバララは声明をだしている[31]

1960年代初期に、私は理想としていた歌のグループの夢をみた。この美しい夢は、私のグループであるレディスミス・ブラック・マンバーゾの創設につながった。その45年後にあたる現在、この最初の夢はより多くの夢につながっている。我々はグラミー賞を授かり、また祖国南アフリカからノーベル平和賞を授与されるためにネルソン・マンデラと一緒にノルウェーへ行ったことなど、世界中を旅して、平和・愛・ハーモニーのメッセージを何百万人にも伝えた。

これは、黒人の南アフリカ人が想像できるような夢ではなかった。

時は経ち、21世紀になったころ、もし私が引退したならばレディスミス・ブラック・マンバーゾはどうなるのかを質問されはじめた。レディスミス・ブラック・マンバーゾは1人ではない。レディスミス・ブラック・マンバーゾは使命だ。それは、我々のメッセージと文化を世の中へ広めていく使命である。南アフリカはとてもすばらしい場所で、美しい人々もたくさんいる。南アフリカを人々の心に響かせるため、我々は20年間ほぼ毎年7ヶ月間のツアーを行なっていた。

レディスミス・ブラック・マンバーゾは家族である。兄弟、従兄弟で一緒に歌っていた。最近15年の間、引退と死のため、私は自分の息子4人を参加させた。彼らは、レディスミス・ブラック・マンバーゾの未来だ。使命とメッセージは続く。時が経ち、私のツアーが終了した後も、彼らは私の夢をやり続ける。私の息子ザムサンカ(トミー)は、グループのニューリーダーになる。このように、私が45年以上前にみた夢は21世紀まで続いていく。平和・愛・ハーモニーのメッセージは、けして黙ってはならないため、レディスミス・ブラック・マンバーゾは続けなければならない。我々はけして沈黙しない。そして我々は、世界中のファンと友人たちがこのメッセージを聞き続けることを望んでいる。

ありがとう! — ジョセフ・シャバララ 2008年1月23日

レディスミス・ブラック・マンバーゾが2007年に発表したアルバム『Ilembe』は、世界の両側で成功した。2008年の南アフリカ・ミュージック・アワード(SAMA Award)で、最優秀トラディショナル・ア・カペラ・アルバムを受賞し、2009年のグラミー賞では最優秀トラディショネル・ワールドミュージック・アルバムにノミネートされた。そして、グループは2009年2月8日のセレモニーで、この賞を受賞され、3回目のグラミー賞獲得となった。

2008年9月、マンバーゾは、SABC Choir と共同でアルバム『My Dream - African Sounds』を発表した。このアルバムは、一緒に歌うだけではなく、お互いの曲を演奏している。 レディスミス・ブラック・マンバーゾは2010年4月にアルバム『Kobuye Kulunge』を南アフリカで発売した。そして年末までに世界的にリリースされることになっている。

2011年には、オリジナル曲を多く収録したアルバム『Songs from a Zulu Farm』を発表した[32]第54回グラミー賞では、最優秀ワールドミュージック・アルバム部門にノミネートされたが、受賞はできなかった>。

2013年に発表したアルバム『Live: Singing for Peace Around the World』は、当時まだ存命だった南アフリカ元大統領のネルソン・マンデラに捧げられたものだった。マンデラが死去した後の2014年1月26日に、この作品は第56回グラミー賞の最優秀ワールドミュージック・アルバム部門を受賞した[33]

2014年には、2002年に他界したネリー・ジャバララ(ジョセフ・ジャバララの妻)に捧げられたアルバム『Always With Us.』を発表した[34]。同年には、イギリスのバレエ楽団エラ・スパイラー&ジ・イナラ・アンサンブルと共演したアルバム『Music From Inala』を発表し、第58回グラミー賞の最優秀ワールドミュージック・アルバム部門にノミネートされた[35]

レディスミス・ブラック・マンバーゾ財団

1999年1月、ジョセフ・シャバララはレディスミス・ブラック・マンバーゾ財団を設立した。組織の目的は、若いズールー人の南アフリカの子供たちに、彼らの伝統文化と音楽(イシカタミア)を教えることである。現在、マンバーゾ・アカデミーが造られ、イシカタミアの歴史を若者に教えている。


  1. ^ Erlmann, V: "Nightsong", page 291-92. The University of Chicago Press, 1996
  2. ^ Shabalala, J: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom". New Video Group, 2004
  3. ^ Erlmann, V: "Nightsong", interview with Joseph Shabalala (page 294). The University of Chicago Press, 1996
  4. ^ Maile, Sam R.: Amabutho, liner notes. Gallo Record Company, 1973
  5. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", interview with Joseph Shabalala. New Video Group, 2004
  6. ^ Erlmann, V: "Nightsong", interview with Joseph Shabalala (page 292). The University of Chicago Press, 1996
  7. ^ a b Erlmann, V: "Nightsong", page 293. The University of Chicago Press, 1996
  8. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", interview with Patrick Buthelezi (Radio Zulu announcer). New Video Group, 2004
  9. ^ a b Nkosi, W: "Ezulwini Siyakhona", liner notes. Gallo Record Company, 1986
  10. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", interview with Paul Simon on the Apartheid system. New Video Group, 2004
  11. ^ Classic Albums - Graceland (interviews with Paul Simon), Harcourt Films - Isis Productions, 1997
  12. ^ Mankwane, M: Mahlathini, Mahotella Queens and Makgona Tsohle Band - Mbaqanga at its Best!, interviews with Marks Mankwane and Mildred Mangxola. Gallo Record Company, 1997
  13. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", interview with Paul Simon. New Video Group, 2004
  14. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", interviews with Sibongiseni, Thamsanqa and Thulani Shabalala. New Video Group, 2004
  15. ^ Shabalala, J: Liph' Iqiniso, liner notes and lyrics. Gallo Record Company, 1993
  16. ^ Shabalala, J: Adam Boulton Meets Ladysmith Black Mambazo, interviews with members of the group. Sky News, 1999
  17. ^ Boulton, A: Adam Boulton Meets Ladysmith Black Mambazo. Sky News, 1999
  18. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom". New Video Group, 2004
  19. ^ ChartArchive - Ladysmith Black Mambazo - The Star And Wiseman - The Best Of”. 2012年7月7日閲覧。
  20. ^ iAfrica.com news report, Tragedy Strikes Ladysmith Black Mambazo アーカイブされたコピー”. 2005年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年3月10日閲覧。.
  21. ^ IOL news report, Shabalala's Son Walks Free [1].
  22. ^ Shabalala, J: Wenyukela, liner notes. Gallo Record Company, 2003
  23. ^ Make Trade Fair - Ladysmith Black Mambazo section, 2006年8月13日閲覧。
  24. ^ South African Press Association, article on release of Raise Your Spirit Higher in the US, 2004
  25. ^ Williamson, N: "Long Walk to Freedom", liner notes. Heads Up International, 2006
  26. ^ ITV London Tonight, interview with Joseph Shabalala during the Ladysmith Black Mambazo UK tour, May-June 2006; retrieved 7 May 2006.
  27. ^ Heads Up International page on Ladysmith Black Mambazo's street team
  28. ^ Ladysmith Black Mambazo tour blog [2], entry entitled "Mavis Staples & Ry Cooder". Retrieved 3 September 2006.
  29. ^ Ladysmith Black Mambazo tour blog [3], entry entitled "We're still in outer space". Retrieved 3 September, 2006.
  30. ^ Ladysmith Black Mambazo homepage [4], entry entitled "Ladysmith Black Mambazo to perform at New York's Carnegie Hall with Special Friends". Retrieved 19 September, 2006.
  31. ^ Harp Magazine, "Ladysmith Black Mambazo's Shabalala To Retire, Names Successor" Archived 2009年2月7日, at the Wayback Machine.. Retrieved January 24, 2008.
  32. ^ Ladysmith Blaqck Mambazo: new album - Prescription PR” (2011年2月7日). 2016年2月27日閲覧。
  33. ^ Past Winners Search”. Grammy.com. 2016年2月27日閲覧。
  34. ^ the official page for LADYSMITH BLACK BAMBAZO - Our Story”. mambazo.com. 2016年2月27日閲覧。
  35. ^ 58th Annual GRAMMY Awards Winners & Nominees”. Grammy.com. 2016年2月27日閲覧。
  36. ^ Simonson, E: "On Tiptoe: Gentle Steps to Freedom", commentary by Joseph Shabalala on the Durban YMCA competitions of 2004. New Video Group, 2004
  37. ^ a b c d Ladysmith Black Mambazo tour page; list of current tour dates
  38. ^ Erlmann, V: "Nightsong", brief history of Ladysmith Black Mambazo (page 93). The University of Chicago Press, 1996
  39. ^ Erlmann, V: "Nightsong", page 93. The University of Chicago Press, 1996
  40. ^ http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/mean-girls-movie-transcript.html


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