レオ10世による贖宥状
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マインツ大司教アルブレヒト
マインツ大司教位の奪い合い
マインツ大司教位は、ドイツの聖職者の最高位であると同時に、7つしかない選帝侯位の1つである[注 15]。聖界諸侯位なので、世俗諸侯と違ってその位は世襲制ではない。そのためマインツ大司教位はドイツ諸侯の家門政策のためにはぜひ手に入れたい地位だった。15世紀の終わりにはザクセン選帝侯を世襲するエルンスト家がその座を獲得した。同家嫡男のフリードリヒ3世(賢公)がザクセン選帝侯となり、次男エルンスト2世がマクデブルク大司教、三男アダルベルト3世がマインツ大司教に就いた[注 16]。ザクセン選帝侯家は7つの選帝侯位のうち2つを占めることになり、栄華を誇った。
しかしアダルベルトはわずか2年で若死にしてしまう[22]。さらに1513年にエルンスト2世も死んでしまうと、エルンスト2世が持っていたマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位は、ブランデンブルク選帝侯位をもつホーエンツォレルン家の手に渡ってしまった。おまけに1514年に当時のマインツ大司教が死ぬと、マインツ大司教位までホーエンツォレルン家のものとなった[23][注 17]。これによりホーエンツォレルン家が選帝侯位を2つ有することになった。この頃のホーエンツォレルン家はどちらかと言えば新興で、長くドイツで大きな勢力を誇ってきたエルンスト家とはなにかと対立する存在だった。そのホーエンツォレルン家にマインツ大司教の座を渡してしまったのは、ザクセン選帝侯賢公フリードリヒ3世の無策が招いた失敗だったと評されている[14]。
ホーエンツォレルン家のアルブレヒト
この位に就いたのが、ホーエンツォレルン家の次男アルブレヒト(1490-1545)である[24]。アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世(1484-1535)の実の弟で、はじめのうちは兄と共同でブランデンブルク辺境伯領を治めていた[注 18]。1513年にマクデブルク大司教とハルバーシュタット司教を兼任していたザクセンのエルンスト2世が死ぬと、アルブレヒトはその後継者として叙任された[14]。と言ってもアルブレヒトは神学者でもなんでもなく、ホーエンツォレルン家が金と政治力で手に入れた職位だった[25]。大司教位は本当は30歳以上でなければ認められないのに[24]、このときアルブレヒトはまだ23歳だった[14]。
翌1514年にマインツ大司教ウリエルが死ぬと、ホーエンツォレルン家はマインツ大司教位獲得に乗り出した[4][26]。その結果アルブレヒトが、マインツ大司教、マクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教を兼任することになった。本来、教会法では高位聖職者の兼任は禁止だし、年齢制限も満たしていない。が、然るべき金額を支払うならば、教皇レオ10世はそれを許可したのだった[14][4][26][24]。
しかし問題はその金額の高さだった。もともと司教や大司教は、任命された1年目の収入を「初収入税」としてローマ教皇に上納する義務があった[17]。ローマ教皇レオ10世は、アルブレヒトが複数の聖職位、それもドイツ最高のマインツ大司教位を含めた3つの職位を兼任することを「特別に」許可する代償として、法外な選任保証料を納めるよう要求した[14]。その額は、マインツ大司教位に対して金貨12,300枚、マグデブルク大司教位に対して金貨1,079枚だったとされている[4][注 19]。これは「大国の高級官僚の年収50年分[4]」とか「神聖ローマ帝国の歳入に匹敵[14]」するほどの額だったとも言われている。しかしまだ若いアルブレヒトはそのような資産は持っていなかったし、所領のマインツからその費用を徴収するのも無理だった。というのも、マインツ大司教はここのところ数代にわたって短命な者が続いていて頻繁に変わっており[注 20]、その都度ローマへ初収入税を納めていたので、もはやさらなる支払いを捻出できるような状態では無かった[14][注 21]。
そこでアルブレヒトはこれを賄うためフッガー家から借金をすることになった[16][27][24]。
注釈
- ^ 厳密には、第1回十字軍のときに初めて大規模に発行されたものであり、それ以前にも無かったわけではない[2]。
- ^ これは概ね当時の平均寿命に相当していたと考えられている[2]。
- ^ 最後の審判で地獄に落ちるということになる。
- ^ こうした「罪の告白」行為は、もともとケルトの伝統であり、特にアイルランドで行われていたものをキリスト教が採り入れて[7]、1215年の第4ラテラン公会議で制度化したものである[8]。
- ^ 金を隣人から盗んだ行為を神は赦しても、隣人の被害が回復するわけではない[8]。
- ^ たとえば、聖地や聖遺物に対する巡礼では、その行き先や聖遺物の著名度に応じて、贖われる罰の量(年数)が変わる[3]。ただし、この巡礼には代理人を立てることも認められた[2]。王侯は自分自身が巡礼に出るのは非現実的なので、人を雇って(1人とは限らない)代わりに巡礼に行かせるのである。
- ^ ここでいう「断食」は、飲食をパンと水だけに限ることを言う[10]。
- ^ 後述する『コルンバヌスの悔悛規定書』では、強盗には1年、殺人には3-10年ないしそれ以上、と言った具合になっている。これらの罰は犯した罪の種類や程度によってさまざまである。たとえば妻帯男性が他人の妻と姦通した場合、相手の妻が妊娠しなかった場合には3年の罰が与えられ、男はその間断食と節制(自分の妻とも交わってはならない)をする必要がある。一方、独身の男女間の姦通の場合には、罰は2人が結婚することだった[10]。
- ^ この戦いはローマ教皇アレクサンデル2世の承認を得たものだったが、たとえそうであっても、殺人は「罪」であり、「罰」は避けられないのである。騎士たちは、他の戦いでも同様に、戦功をあげればあげるほど「罪」を重ねることになり、相応の罰を課されることになる[3]。
- ^ 6世紀のアイルランドの伝道師コルンバヌスは、現世で犯した罪とそれに見合う罰をまとめた『コルンバヌスの悔悛規定書』を著した。これは聖職者が罰を与える際のガイドラインとなった。ただし同書は冒頭で「真の償いは、償いをしなければいけないような行いを二度と起こさないこと」としており、信徒個人に対する個別の罰の規定書というよりは、社会全体を律しようという目的をもっていた[10]。
- ^ 金銭を対価として贖罪が軽減されるという発想は「中世後期の教会の堕落」だと表現されることが多いが、必ずしもそうとは言えない[8]。他者の損害を金銭で贖うというのは、古くからゲルマン人が行ってきた「血の価」と呼ばれる法習慣だった[2][8]。ドイツ語で「悔い改め」を意味する語は「金銭での損害賠償」と同じ語が用いられていた[2]。そのために、神学を修めた教会の聖職者が「悔い改め」と言ったとき、ドイツの民衆は「支払いをすれば帳消し」と理解していた[2]。
- ^ これは主にバターを食べることを赦すので「バター状」と呼ばれた。
- ^ のちにルターが教会批判を行ってカトリック教会と対立したとき、教会側はルターから「フスの主張に共感できる点がある」との発言を引き出すことで、ルターを異端と断定する論法をとった。
- ^ レオ10世が贖宥状を出したのはこれ1件きりというわけではない。レオ10世はあちこちの高位聖職者に「贖宥状を発行する認可」を下し、その売上の3割から5割を「認可」の対価として上納させていたとされている[2]。教皇は贖宥状を売る地域と目的を定めた勅書を遣わし、特使をその任にあてた。時には彼らを派遣するための事前の外交的根回しに相当な費用を要し、贖宥状の売上のほとんどが経費に消えることもあったという[19]。
- ^ マインツ大司教は皇帝選挙の進行役であると同時に、7人の投票者の最後に投票することになっており、それまでの6人の投票が同数だった場合に皇帝を最終決定する役割を担っていた[21]。
- ^ 厳密な意味では、アダルベルト3世はマインツ大司教位に就いたわけではない。アダルベルト3世は次期マインツ大司教として指名され、教皇もそれを承認したが、前マインツ大司教が死去して自分の番になった時点でまだ15歳で若すぎた。そのため、大司教領の長としての支配は認められつつも、大司教代理の扱いであり、大司教位は空位とされた(正確には「Administrator」であり、「空席大司教座参事会長」などと訳される。)。そして結局正規の大司教となる前に死んでしまった[22]。
- ^ ホーエンツォレルン家の本拠であるブランデンブルクは、ドイツ東部のエルベ川流域にある。一方、マインツ大司教領はドイツ西部のライン川流域にある。なおホーエンツォレルン家のもともとの所領はライン川中流のフランケン地方である。
- ^ アルブレヒトはブランデンブルク辺境伯(共同統治者)ではあるが、ブランデンブルク選帝侯ではない(選帝侯位は兄ヨアヒムが授けられている。)。
- ^ 金額については資料によって表現が異なっている。「2万グルデン(300万マルク)[16]」、「フローリン金貨3万枚[15]」など。『マルティン・ルターの生涯』では、当時の貨幣単位やその価値はさまざまであり、統一的で決まった換算方法というのも無かったので、細かい数字にこだわる意味はない、としている[14]。
- ^ 1504年、1508年、1514年に新しいマインツ大司教が就任している。
- ^ 初収入税を自力で支払う、というのがアルブレヒトのマインツ大司教選出の条件だった[15]。
- ^ 贖宥状の一件には直接関わりないが、1519年に行われる神聖ローマ皇帝の選挙でカール5世が選帝侯を買収するための巨額の資金を融資したのもフッガー家である[27]。
- ^ イタリア人によって乳を搾り取られる存在、の意
- ^ ザクセン選帝侯領の富の源泉は、領内の銀鉱山にあった。当時の鉱山開発技術の発展によって、フリードリヒ3世の時代に鉱山収入は伸び、選帝侯を潤したのだった。フッガー家も鉱山収入で同時期に急速に発展したのであるし、ルターの父親はザクセン選帝侯の鉱山の監督官として財を築いた人物である[33]。
- ^ その数は1509年の時点では5,000点だったが、1520年には19,013点にまで増えていた[35]。フリードリヒ3世は、聖遺物を買い増しする原資として、領内の銀鉱山の収入や、自ら発行する贖宥状販売の収入を充てていた[3][36][37]。レオ10世の贖宥状が出た頃はもうフリードリヒ3世は贖宥状の発行をやめていたが、フリードリヒ3世には贖宥状そのものをおおっぴらに批判するのは難しかった。のちにルターが聖遺物崇拝も偶像崇拝の一種であると批判を始めると、選帝侯はコレクションを手放さざるを得なくなった[36]。コレクションのうち現存するのは、ルターに与えられたガラス製の杯1点のみである[38]。
- ^ この時点でのルターは、煉獄や贖宥そのものは否定していなかった。のちにルターはこれら全体を否定するようになり、赦しを与えることができるのは神だけであるとして、教会や教皇そのものを否定するようになった。詳細は信仰義認参照。
- ^ ルターの文書はマインツ大司教の手元にももたらされたが、中身は難しい教理のことだったので、聖職位を金で買っただけのマインツ大司教やレオ10世には、ルターが何を言っているのかはよくわからなかった[25]。これは彼らに限ったことではなく、ルターの直属の上司にあたるアウグスティヌス修道会の聖職者たちも、贖宥の教理については不案内だった[2]。
- ^ 「『宗教改革』はルターによる95ヶ条の論題によって始まり、全ヨーロッパへ広がっていった」という一般的な通説を、現代の多くの歴史家は支持していない[45]。宗教改革は同時多発的に、お互いの連携を持たないまま、並行して拡散・進展したというのが、現代の歴史家や宗教史家のあいだの定説である。にもかかわらず、ルターを宗教改革の全ての起点とみなす見方が今でも世間一般に流布している、ということを歴史家は認めている[59][45]。
出典
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