ラファイエット
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離仏
アメリカ独立運動との出会い
1773年に婚姻契約を結んだ後、ラファイエットは妻とヴェルサイユにある義父の家に住んだ。そしてヴェルサイユの乗馬学校(同級生にはのちのシャルル10世もいた)と、名門のアカデミー・ド・ヴェルサイユ(Académie de Versailles)で学業を続けた。1773年4月には、義父の要請により国王連隊から移り[17]、ノアイユの竜騎兵隊の中尉に任じられた[18]。ラファイエット夫妻は毎週王妃の舞踏会に出席したが、ラファイエットはダンスが下手でマリー・アントワネットにからかわれ、酒も弱く、宮廷内でうまく立ち回れなかった[19]。
1775年、ラファイエットはメスで行われた所属部隊の年度演習に参加し、そこで東部方面軍司令官のルフェック侯爵シャルル=フランソワ・ド・ブログリーに出会った。夕食で二人はイギリスの北米植民地で起きている反乱について議論した。ラファイエットは父親を殺したイギリスを憎んでいて、イギリスが敗北すればその国際的な地位が低下すると考えていた、という見解があり[20]、また、フリーメイソンに加入して間もないラファイエットが、反乱について話すことで、「『自由のために戦う人々』としてのアメリカ人の姿が、彼の騎士道的そして今やフリーメイソン的な創造力に火を付けた」と記す者もいる[21]。
1775年9月、18歳になったラファイエットはパリに戻り、結婚のプレゼントとして約束されていた竜騎兵の隊長となった。12月には最初の子供、アンリエット(Henriette)が生まれた。この間にラファイエットは、アメリカ独立戦争が自分の信念に合うと確信するようになり[22]、「私の心は捧げられた」と語った[23]。
1776年には、サイラス・ディーンを含むアメリカの使節とルイ16世、シャルル・ド・ヴェルジェンヌ外務大臣との間で、繊細な交渉が行われた。ルイ16世とヴェルジェンヌは、アメリカ人に武器や士官を送ることで、北アメリカにおけるフランスの影響力を回復し、イギリスに対し七年戦争での敗北の復讐を果たすことを望んでいた。ラファイエットはフランス士官がアメリカへ送られる話を聞くと、それに加わることを求めた。彼はディーンに会い、若年に関わらず参加を認められた。1776年12月7日、ディーンはラファイエットを少将に就けた[24]。
フランスがアメリカに士官とその他の支援を送る計画は、イギリスに知られると無に帰し、戦争となる恐れがあった。ラファイエットの義父ノアイユはラファイエットを叱り、彼にロンドンへ行き、駐英大使でラファイエットの義理の叔父であるノアイユ侯爵を訪ねるよう伝え、1777年2月にラファイエットはそうした。しかしその間もラファイエットはアメリカ行きの計画を捨てなかった。ラファイエットはジョージ3世を紹介され、ロンドンの社交界で3週間過ごした。そしてフランスへの帰国途中に、義父から身を隠し、アメリカへ行くつもりであると手紙を書いた。ノアイユは激怒し、ルイ16世に、特にラファイエットの名前を挙げて、フランスの士官がアメリカに行くのを禁止する命令を出すよう説得した。ヴェルジェンヌがラファイエット逮捕を命じるよう国王を説得した可能性もあるが、定かでない[25]。
アメリカへ出発
ラファイエットは大陸会議には彼の旅費を出す資金がないと知り、自ら112,000ポンドを出して帆船「ヴィクトワール(Victoire)」を購入した[26][27]。「ヴィクトワール」が待つボルドーへ行き、家族の反応を尋ねる手紙を送った。彼の妻や他の親族からの手紙はラファイエットを心理的に動揺させた。同行した士官の不満のため、出航後すぐに、ラファイエットは船を反転させボルドーへ戻った。ボルドーの軍司令官はラファイエットにマルセイユにいる義父の連隊に報告するよう命令した。アメリカで軍事および政治のリーダーになることを望んでいたブログリーはラファイエットにボルドーで会い、実は政府はラファイエットをアメリカへ行かせたがっていると信じさせた。アメリカ独立運動が人気だったパリではラファイエット支援の動きも相当あったが、ブログリーの話は事実ではなかった。ラファイエットはそれを信じようとし、マルセイユへの報告命令に従うふりをし東へ数マイル行ったところで逆戻りし船に帰った。「ヴィクトワール」は1777年3月25日にジロンド川岸のポーイヤックを出航。新大陸への2ヶ月間は船酔いと退屈の旅であった[28]。船長のルボルシェ(Lebourcier)[27]は西インド諸島で積荷を売るつもりであったが、逮捕を恐れたラファイエットは寄港阻止のため積荷を買い取った[29]。そして1777年6月13日、サウスカロライナ州ジョージタウン近くのノースアイランドに上陸した[30][31]。
注釈
- ^ 彼のフルネームはめったに使われない。代わりにラファイエット侯爵と記されることが多い(アメリカでは「Lafayette」、フランスでは公式には「La Fayette」と記される)。伝記作家のルイス・R・ゴッツチョークは、ラファイエット自身は「Lafayette」と「La Fayette」両方を使っていたと述べている。同世代の人々は、彼の先祖、小説家のラファイエット夫人(Madame de La Fayette)に似せて「La Fayette」を用いていた。しかしラファイエットの家族は「Lafayette」と書いていた。Gottschalk, pp. 153–54参照。
- ^ ニューヨークタイムズの記事にはメリーランド州の法律の写が載っている。「ラファイエット侯爵とのその男性相続人を永久に帰化させる法律……メリーランド州議会は以下を制定する。ここにラファイエット侯爵とその男性相続人を永久にこの州の生まれながらの市民であると宣告し、今後、生まれながらの市民としてのすべての免除、権利および特権を付与されるものとする。そのような免除、権利及び特権の享有及び行使においては、この国の憲法及び法律に準拠するものとする。」
- ^ 1789年7月の議員数は、第一身分(聖職者)295名、第二身分(貴族)278名、第三身分(平民)604名[103]
- ^ 30人委員会は、社会改革を目指すグループである「愛国派(パトリオット)」が設立した党派。ラファイエットのほかニコラ・ド・コンドルセなどが参加していた[104]
- ^ 聖職者議員の多数は農民や職人出身であったため柔軟であった[106]。
- ^ ラファイエット派とも呼ばれ、後にジャコバン派の一部と合流しフイヤン派となった[123]。
- ^ アドリエンヌの祖父母、母親、姉は処刑されている[154]。
- ^ ボルマンとハガーは、捕まり短期間投獄された後に釈放され、ラファイエットを救出しようとしたことで世界的な人気者になった。Lane, p. 218参照。また、彼らはアメリカに渡ってワシントンと会い、オルミュッツの状況を説明した。Unger, loc. 7031参照。
- ^ 1793、1794年に立法議会はシャバニャック城を含む領地を没収し売却していた[163]。なお、この没収に対し1826年に総額45万フランの補償金を得ている[164]。
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