ラファイエット フランス革命

ラファイエット

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フランス革命

名士会と三部会

ラファイエットが三部会に提案した「人間と市民の権利の宣言

1786年12月29日、ルイ16世はフランスの財政危機英語版に対処するため、名士会を招集。ラファイエットは1787年2月22日に名士会に任じられた[98]。演説の中でラファイエットは、政府の土地買収の高度な知識から利益を得ている宮廷内の人間関係を非難し、その改革を提唱した[99]。そしてフランス全土を代表する「真の国民議会」を求めた[100]。ルイ16世は代わりに1789年に三部会英語版を開催することとし、ラファイエットはリオンから貴族(第二階級)議員に選出された[101]。三部会は伝統的に、3つの身分、聖職者、貴族、平民が身分毎に一票投票する、つまり平民が投票に負けるものであった[102]

三部会は1789年5月5日に召集されたが、最初から、一票を議員一人毎にするか身分毎にするかの議論で紛糾した。身分毎なら貴族と聖職者で平民に投票で勝つことができる一方、議員毎にすれば人数で上回る平民が議事を支配することができる[注釈 3]。会議の前に、「30人委員会[注釈 4]」のメンバーとしてラファイエットは身分毎ではなく議員毎一票を煽った[105]。ラファイエットは自分が属する貴族階級の過半数の同意を得ることができなかったが、聖職者は喜んで平民側に付き[注釈 5]、6月17日、このグループは自ら国民議会と名乗った[107]。王党派は彼らを議場から締め出し、国民議会側は室内球戯場に集まり集会を行った。これが「球戯場の誓い」であり、排除された議員たちは憲法が制定されるまで離脱しないことを誓った[108]。国民議会は会合を続け、7月11日にラファイエットは、ジェファーソンの助言を受け執筆した「人間と市民の権利の宣言」の草案を議会に提示した[109]。同日、財務総監で改革者とみられていたジャック・ネッケルが罷免されると、弁護士のカミーユ・デムーランが武装した群衆を率いる。ルイ16世はブロイ公爵が率いる軍隊でパリを包囲[110]したが、7月14日に群衆がバスティーユ要塞を襲撃した[111]

国民衛兵、ヴェルサイユ、短剣の日

マリー・アントワネットと共にヴェルサイユ宮殿のバルコニーに立つラファイエット
パリのフランス軍事博物館に展示されている、ラファイエットの国民衛兵の将軍時代のサーベル

7月15日、ラファイエットは、議会の下で治安を維持するために設立された武装組織である国民衛兵の司令官に任命された[112][113]。ラファイエットはその名称と、シンボル(青・白・赤の円形章)を提案した。パリ市の赤と青に王家の白を組み合わせたもので、フランス三色旗の原型となった[109][111]。ラファイエットは国民衛兵司令官として困難に直面した。王と多くの王党派がラファイエットとその支持者を革命同然とみなす一方、平民の多くはラファイエットが国王の権力維持を助けようとしていると感じていた。

国民議会は8月26日に人間と市民の権利の宣言を採択したが[114]、10月2日、ルイ16世はこれを拒否した[115]。その3日後、魚屋の女性たちに率いられたパリ市民がパン不足を訴えてヴェルサイユへ行進した。ラファイエットは渋々国民衛兵を連れ、行進の後に続いた。ヴェルサイユで、ルイ16世は人権宣言に対する議会の決議を受け入れたが、パリに行くことを拒否したため、夜明けに群衆が宮殿になだれ込んだ。ラファイエットは国王一家を宮殿のバルコニーに出し秩序を取り戻そうとしたが[116][117]、群衆は国王一家をパリのテュイルリー宮殿に連れて行こうとしていた[118][119]。ルイ16世がバルコニーに出ると群衆は「国王万歳!」と繰り返した。マリー・アントワネットは子供とともに現れたが、子供たちに中に戻るよう言った。マリー・アントワネットは独り戻り、人々が彼女を撃つと叫んだが、彼女はそこに留まり、発砲も無かった。ラファイエットがマリー・アントワネットの手にキスすると、群衆から歓声が起こった[120][121]

1790年7月14日の連盟祭英語版におけるラファイエットの宣誓。 フランス革命博物館英語版所蔵。

急進派が影響力を増す中にあっても、ラファイエットは国民衛兵司令官として、秩序を維持し中道であろうとした[122]。彼とパリ市長ジャン=シルヴァン・バイイは、1790年5月12日、急進的なジャコバン派の影響力とバランスを取ることを目的とした政治組織、1789年の会英語版[注釈 6]を設立した[124]。7月14日にシャン・ド・マルスで開かれた連盟祭英語版では大群衆を前に、「国民議会で採択され国王が同意した憲法を最大限の力で支持するために、国家、法、国王に対し忠誠を誓う」と宣誓した[125]。続いて軍隊と国王も宣誓を行った[126][127]

ラファイエットは続く数か月、秩序維持のために働き続けた。1791年2月28日、ヴィンセンヌでの紛争を処理するため、国民衛兵の一部とともにチュイルリーを出発した。彼がいない間、武装した数百名の貴族が国王を守るためにテュイルリー宮殿に集まった。だがこれは、貴族が国王を連れ去り、反革命のトップに立てようとしているとの噂になった。ラファイエットはすぐにテュイルリーに戻り、一瞬の膠着状態の後、貴族たちを武装解除した。この一件は短剣の日英語版と呼ばれ、迅速に国王を守ったことでラファイエットの人気拡大を後押しした[128]。にもかかわらず、国王一家はますます宮殿の囚人と化していった[129]。4月18日には国民衛兵がラファイエットの命令に背き、群衆と一緒に、ルイ16世がミサに出席する予定だったサン=クルーへの出発を阻止した[111][130][131][132]

失墜:ヴァレンヌ事件とシャン・ド・マルスの虐殺

1791年6月20日のヴァレンヌ事件として知られる策謀で、ルイ16世は国外脱出一歩手前までいった。ラファイエットは国民衛兵の指揮官として国王一家の保護責任を負っていたが、そのためにジョルジュ・ダントンのような急進派から非難され、マクシミリアン・ロベスピエールからは民衆への裏切者と名指しされた[133]。これらの非難によりラファイエットは王党派であると印象付けられ、その名声はダメージを負い[134]、ジャコバン派や他の急進派の力を強化した。ラファイエットは法に基づく統治を訴え続けたが、暴徒とそのリーダーにかき消された[135]

シャン・ド・マルスの虐殺を描いた絵。中央に剣を持つラファイエットがいる。

ラファイエットの評判は1791年後半まで低下を続けた。急進派のコルドリエ・クラブは7月17日に、王政廃止か、国民投票でそれを決めるかを求める国民議会への請願書への署名を集めるイベントをシャン・ド・マルスで開催した。集まった市民は約1万人に達し、スパイと疑われた2人が絞首刑となった。ラファイエットは治安回復のため部隊を率いてシャン・ド・マルスへ向かったが、銃撃や投石にあった。竜騎兵が崩れると、兵士が 群衆に向かって発砲し、多数の死傷者が出た。戒厳令が出され、ダントンや ジャン=ポール・マラーなど、暴徒のリーダーたちは逃亡し身を隠した。この虐殺の後、市民の間でのラファイエットの評判は、王室の利益に同調していると信じられて劇的に悪化した[136]。虐殺直後、暴徒がラファイエットの家を襲い、妻に危害を加えようとした。国民議会は9月に憲法を完成させ、それを見てラファイエットは10月初旬に国民衛兵を辞職した[137]

戦争、そして亡命

ラファイエットは1791年10月、オーベルニュの領地へ戻った[138]。11月にはパリ市長選挙に立候補したが、ジロンド派の候補に大敗した[139]。1792年4月20日、フランスはオーストリアに宣戦布告し、オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)への侵攻準備を開始した。1791年6月30日に中将に昇進していたラファイエットは、同年12月14日、3つの軍のうちの1つ、メスを拠点とする中央方面軍英語版の司令官となった[140]。ラファイエットは、徴募兵と国民衛兵の団結力を高めるために最善を尽くしたが、兵士の多くはジャコバン派のシンパであり、上官を嫌っていた。この感情は軍隊でよく見られ、マルカンの戦いの後には、敗走したフランス兵が指揮官のテオバルド・ディヨン英語版リールに連れ込み、暴徒が殺害したこともあった。軍司令官の一人、ロシャンボーは辞任した[141]。ラファイエットは、もう一人の司令官ニコラ・リュクネールとともに、軍隊が再び戦闘を行ったら何が起こるか懸念して、和平交渉の開始を議会に要請した[142]

1792年6月、ラファイエットは議会への軍事郵便を通じて急進派の影響力が増していることを批判し[143]、急進派を「力によって終わらせたい」と手紙をしめくくった[142]。これは時機を見誤ったもので、パリは急進派が完全に支配していた。ラファイエットはパリへ行き、6月28日にジャコバン派などの急進派を非難する激しい演説を行った。しかし軍を脱走したとして告発された。ラファイエットはジャコバン派に対峙する志願者を集めたが、わずかな人数しか現れなかったことで民衆の態度を知り、急いでパリを離れた。ロベスピエールはラファイエットを裏切者と呼び、暴徒が彼の人形を火刑にした[144]。1792年7月12日、ラファイエットは北部方面軍英語版の指揮官に異動となった。

国王と王妃に危害が加えられた場合にはオーストリアとプロイセンがパリを破壊すると警告した7月25日のブラウンシュヴァイクの宣言は、ラファイエットと国王一家に破滅をもたらした。8月10日に群衆がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王と王妃は立法議会により、タンプル塔に幽閉された。立法議会が国王の権限を停止し、国王と王妃は数か月後に処刑されることになる。8月14日、司法大臣のダントンがラファイエット逮捕の令状を出す。ラファイエットはアメリカ行きを望んで、オーストリア領ネーデルラントへ逃亡した[145]


注釈

  1. ^ 彼のフルネームはめったに使われない。代わりにラファイエット侯爵と記されることが多い(アメリカでは「Lafayette」、フランスでは公式には「La Fayette」と記される)。伝記作家のルイス・R・ゴッツチョーク英語版は、ラファイエット自身は「Lafayette」と「La Fayette」両方を使っていたと述べている。同世代の人々は、彼の先祖、小説家のラファイエット夫人(Madame de La Fayette)に似せて「La Fayette」を用いていた。しかしラファイエットの家族は「Lafayette」と書いていた。Gottschalk, pp. 153–54参照。
  2. ^ ニューヨークタイムズの記事にはメリーランド州の法律の写が載っている。「ラファイエット侯爵とのその男性相続人を永久に帰化させる法律……メリーランド州議会は以下を制定する。ここにラファイエット侯爵とその男性相続人を永久にこの州の生まれながらの市民であると宣告し、今後、生まれながらの市民としてのすべての免除、権利および特権を付与されるものとする。そのような免除、権利及び特権の享有及び行使においては、この国の憲法及び法律に準拠するものとする。」
  3. ^ 1789年7月の議員数は、第一身分(聖職者)295名、第二身分(貴族)278名、第三身分(平民)604名[103]
  4. ^ 30人委員会は、社会改革を目指すグループである「愛国派(パトリオット)」が設立した党派。ラファイエットのほかニコラ・ド・コンドルセなどが参加していた[104]
  5. ^ 聖職者議員の多数は農民や職人出身であったため柔軟であった[106]
  6. ^ ラファイエット派とも呼ばれ、後にジャコバン派の一部と合流しフイヤン派となった[123]
  7. ^ アドリエンヌの祖父母、母親、姉は処刑されている[154]
  8. ^ ボルマンとハガーは、捕まり短期間投獄された後に釈放され、ラファイエットを救出しようとしたことで世界的な人気者になった。Lane, p. 218参照。また、彼らはアメリカに渡ってワシントンと会い、オルミュッツの状況を説明した。Unger, loc. 7031参照。
  9. ^ 1793、1794年に立法議会はシャバニャック城を含む領地を没収し売却していた[163]。なお、この没収に対し1826年に総額45万フランの補償金を得ている[164]

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  224. ^ Gaines, p. 447
  225. ^ a b Kramer, p. 5
  226. ^ Gaines, pp. 349, 440
  227. ^ a b Gaines, p. 440
  228. ^ Leepson, p. 176






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