モロッコ 国名

モロッコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 15:06 UTC 版)

国名

正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。

公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc

公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco

日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ漢字の当て字は、摩洛哥馬羅哥莫羅哥茂禄子など[6]

アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。

アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。

トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。

歴史

アル=アンダルスのイスラーム化

マウレタニアの領域。

先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州マウレタニア・ティンギタナとなった。

ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系ヴァンダル人ジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派ファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。

しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー英語版を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。

18世紀まで

ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク

1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナーシルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。

マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルエンリケ航海王子ジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。

サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。

1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。

フランス資本の定着まで

続くスライマーンは、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い英語版で敗れた。1856年にはイギリス不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。

1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン英語版が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入したなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。

1904年英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年フェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコ英語版となった。

フランス領モロッコ英語版初代総督、ウベール・リヨテの写真。

フランス領モロッコ英語版の初代総督には、ウベール・リヨテ将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年ドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年アブド・アルカリームが、スペイン領モロッコ英語版リーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。

1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島フランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年連合国ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。

モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタメリリャイフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年スルターンムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争英語版が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。

外資と君主と実効支配

ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。

1961年ハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法英語版が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年イスラエル6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。

一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった[7]。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル英語版将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部英語版の排除を行った(Years of Lead)。

1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線サハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている。

1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年ペレヒル島危機英語版が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。

世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した[注釈 1][8]

2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。

2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した[9][10]。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした[11]。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された[12]

2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラレバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた[13]

2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した[14]

政治

国家体制国王元首とする、立憲君主制を採っている。現国王として在位しているのはアラウィー朝ムハンマド6世である。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。

2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された[15]

議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である[16]2007年に行われた下院選では、保守系の独立党(イスティクラール党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟は大きく議席を減らし、38議席になった。

2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった[17][18]。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。

合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやサラフィスト・グループなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。


注釈

  1. ^ EUによる国際経済に占める「優先的地位」は、欧州近隣政策における行動計画の成果に基いて、EU側が付与する。モロッコに付与されたそれは、FTA締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動の実現や、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容させる事などを、目標としている。
  2. ^ 最も狭い部分では幅14 kmしかない
  3. ^ いわゆる「北東貿易風」と呼ばれる風である。
  4. ^ モロッコの固有種のアルガンノキから採取するアルガンオイルは、モロッカンオイル、つまり「モロッコの油」といった意味の別名でも知られる。
  5. ^ 原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。一方で、天然ガスは比較的多く産出する。
  6. ^ 特に、リン鉱石は、採掘量は世界第2位ながら、埋蔵量世界1位と言われている。なお、リン酸肥料だけではなく、モロッコでは窒素肥料の製造も行っている。
  7. ^ ミントに関しては、アッツァイと呼ばれるミント緑茶に、大量の砂糖を加えて飲む習慣が見られる。
  8. ^ 例えばフィクションでは、1998年にディレクTVで放映されたアニメ『BURN-UP EXCESS』第8話で、登場した誘拐犯(オカマバーの元店長と元従業員)が身代金の使い道の1つとして「モロッコに行って性転換」する事を挙げた。

出典

  1. ^ a b c モロッコ王国 外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan
  2. ^ The World Factbook/Morocco”. 中央情報局 (2017年5月9日). 2017年5月23日閲覧。
  3. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年11月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月16日閲覧([1]
  5. ^ Note sur les premiers résultats du Recensement Général de la Population et de l’Habitat 2014”. モロッコ王国 (2014年). 2017年5月23日閲覧。
  6. ^ 外務省: 外交史料 Q&A その他外務省、2010年4月21日閲覧。
  7. ^ 「モロッコ軍部クーデーター失敗 国王殺害企てる 宮殿襲い銃撃戦」『中國新聞』 1971年7月12日 5面
  8. ^ 高崎春華 「EU広域経済圏の形成と金融FDI」 日本国際経済学会第70回全国大会
  9. ^ “モロッコ、AUに復帰へ=西サハラ問題で30年前脱退” (html). 時事通信社. (2016年7月18日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2016071800044&g=int 2016年7月24日閲覧。 
  10. ^ “アフリカ連合に復帰へ モロッコ国王が表明” (html). 産経新聞. (2016年7月18日). http://www.sankei.com/world/news/160718/wor1607180028-n1.html 2016年7月24日閲覧。 
  11. ^ Morocco Asks to Re-join African Union After 4 Decades”. Voice of America. 2016年9月24日閲覧。
  12. ^ モロッコの加盟承認=西サハラ問題で30年超対立-AU AFPBB News 2017年1月31日
  13. ^ モロッコ、イランと断交『日本経済新聞』夕刊2018年5月2日掲載の共同通信配信記事。
  14. ^ a b c d アルジェリア、モロッコと国交断絶 「敵対行為」めぐり” (日本語). AFP. 2021年8月25日閲覧。
  15. ^ “モロッコにおける憲法改正に係る国民投票について”. (2011年7月19日). https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dga_0719.html 2011年7月19日閲覧。 
  16. ^ 「モロッコ王国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)272頁。
  17. ^ NEWS25時:モロッコ 穏健派が勝利宣言 毎日新聞 2011年11月27日
  18. ^ モロッコ下院選、イスラム穏健派が勝利 初の第一党に 朝日新聞 2011年11月28日。
  19. ^ モロッコ 都市人口(全体の%),1960-2020-knoema.com
  20. ^ a b c d e f g h i j k en.m.wikipedia.org>Morroco
  21. ^ 二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.124、p.125 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6
  22. ^ a b 日経産業新聞「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日
  23. ^ 「【新興国ABC】モロッコの産業フリーゾーン 車・航空機の産業集積」 日経産業新聞 2018年5月14日(グローバル面)。
  24. ^ a b c d e f g h 二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.317 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6
  25. ^ a b 二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.316 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6
  26. ^ a b 二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.124 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6
  27. ^ フェルダウス投資担当閣外相によるコメント。『日経産業新聞』2018年5月29日(環境・素材・エネルギー面)掲載、モロッコ「再生エネ52%に」。
  28. ^ 【旅】ケラア・ムグーナ(モロッコ)砂漠の中の「バラの谷」香り芳潤 美容にも一役『読売新聞』夕刊2018年5月16日。
  29. ^ モロッコで行くべき観光スポットTOP10とモロッコの基本情報”. ワンダーラスト (2016年1月15日). 2018年7月6日閲覧。
  30. ^ 菅澤彰子. “モロッコのリヤドとは”. 2018年7月6日閲覧。
  31. ^ a b モロッコ基礎データ”. 外務省(日本). 2018年7月6日閲覧。
  32. ^ a b 外務省 モロッコ基礎データ
  33. ^ 2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」
  34. ^ CIA World Factbook 2009年12月26日閲覧。
  35. ^ a b c 石崎 まみ 『クスクスとモロッコの料理』 p.7 毎日コミュニケーションズ 2010年10月20日発行 ISBN 978-4-8399-3626-6
  36. ^ 石崎 まみ 『クスクスとモロッコの料理』 p.6、p.7 毎日コミュニケーションズ 2010年10月20日発行 ISBN 978-4-8399-3626-6
  37. ^ a b モロッコ海軍、「人工妊娠中絶船」の入港阻止 CNN.co.jp 2012年10月5日(金)12時53分配信






モロッコと同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「モロッコ」に関係したコラム

  • 株式の取引が行われる証券取引所の一覧

    2012年6月現在の日本の証券取引所、および、世界各国の証券取引所の一覧です。▼日本東京証券取引所(東証)大阪証券取引所(大証)名古屋証券取引所(名証)福岡証券取引所(福証)札幌証券取引所(札証)TO...

  • 世界の株価指数一覧

    株価指数は、証券取引所に上場している銘柄を一定の基準で選出し、それらの銘柄の株価を一定の計算方法で算出したものです。例えば、日本の株価指数の日経平均株価(日経平均、日経225)は、東京証券取引所(東証...

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モロッコ」の関連用語

モロッコのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モロッコのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのモロッコ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS