メスディイェ (装甲艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/24 01:08 UTC 版)
武装
主砲(未搭載)
主砲はイギリスのアームストロング社の開発の「1893年型 23.4cm(40口径)ライフル砲」を採用した。その性能は重量172.4kgの砲弾を、最大仰角15度で11,745mまで届かせられる性能であった。この砲を単装砲塔で前後に1基ずつ配置された。砲架の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は左右150度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は電力で行われ補助に人力を必要とした。発射速度は1分間に2発であった。
その他の備砲・水雷兵装
副砲はイギリスのアームストロング社の開発の「1893年型 Marks VIII 15.2cm(45口径)単装速射砲」を採用した。その性能は45.4kgの砲弾を、最大仰角20度で13,350mまで届かせられた。この砲を単装砲架で片舷6基ずつ計12基を舷側配置した。俯仰能力は仰角20度・俯角7度である。旋回角度は160度の旋回角度を持ち、砲架の俯仰・旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は1分間に5~6発であった。
他に対水雷艇迎撃用に「7.62cm(40口径)単装速射砲14基、5.7cm(43口径)単装速射砲10基、1888年型 4.7cm(43口径)単装速射砲2基搭載した。
防御
本艦の防御力は排水量の割に優秀で、舷側装甲は末端部でさえ152mmから178mm、中央部は254mmにも達する重厚な水線部装甲を持っていた。砲塔も最厚部が280mm、甲板上のバーベットも200mmもの厚さがあったが、甲板から下は砲弾と装薬を運ぶ揚弾筒が弾薬庫に続いているだけあった。
第一次世界大戦
竣工後の本艦の主要任務は黒海内の沿岸警備任務であったが、最新型のニクローズ缶の扱いに不慣れなオスマン帝国の機関兵の手により1911年には本艦の機関は調子を崩して復旧困難となり、バルカン戦争で特筆すべき出撃も無かった。第一次世界大戦の頃にはダーダネルス海峡のトルコ側の入り口に停泊し、砲術員とその他の保守要員だけに減員されて港湾砲台として運用された。そして1914年12月13日に湾内に侵入してきたイギリス海軍B級潜水艦「B11」の雷撃を受け、魚雷1本の命中により撃沈されてしまった。しかし、港内という事もあり水深も浅かったために完全に海没せずに済んだのが不幸中の幸いであった。減員されていたため犠牲者も少なく済んだ上、一部の武装は回収されて陸上砲台に回された。
- ^ 「フフズッラマーン」「アーサール・シヴシュケド」「ニジュミ・シヴシュケド」「イジャリィエ」))中のうち、有事に出撃可能なものは6隻(装甲フリゲート「アサル・テヴフィク」「メスディイェ(本艦)」、装甲コルベット「アヴ・ニッラー」「ムイーニ・ザファー」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)のみである。(この時既に艦隊は3年以上も機器の手入れがなされておらず、夜間攻撃に備えるためのサーチライトがない、魚雷攻撃から停泊する艦艇を守るための防雷網がない、停泊から5年経過しただけで、14隻もの装甲艦がありながら戦闘出撃か可能なのはたったの6隻という事
- ^ 前装填式とは大砲の前から砲弾と炸薬を入れる形式、後装填式とは現代の艦砲と同じく敵に砲口を向けたまま大砲の後部を開いて砲弾と炸薬を入れることの出来る形式のこと
- ^ 艦隊の燃料の石炭・石油を購入する予算が無く、備蓄さえしていない。燃料などの重要軍事物資は有事に迅速に調達できる物ではない
- ^ 案の定、召集された予備役は全く訓練を受けていなかったために現場では何の役にも立たなく。ただ船内のベッドを埋め、食料を消費しただけだった。極めつけは今乗っている乗員は新兵で海に出た経験が無いので、海に出ると船酔いのため航海・砲術訓練が出来ないという暗澹たる有様であった。
- ^ 「ハミディイェ」に24cm単装砲10基と17cm単装砲2基、「メスディイェ(本艦)」に26cm単装砲12基など
- ^ 旧:アブデュルアズィズ
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