マー・ワラー・アンナフル イスラーム勢力の進出とテュルク化

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マー・ワラー・アンナフル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/23 05:00 UTC 版)

イスラーム勢力の進出とテュルク化

8世紀初頭のウマイヤ朝の将軍クタイバ・イブン・ムスリムの征服後にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化が本格的に進展し[2][1]、イスラーム化と並行して近世ペルシア語が広まっていった[1]。この地域は13世紀モンゴル人に侵されるまでイスラム文化の一中心地であり続ける。

651年にサーサーン朝を滅ぼしたアラブ人の軍隊は653年ホラーサーン地方を征服し、654年に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れる[25]。略奪、貢納の徴収を目的とするアラブ人の侵入が繰り返された後、705年からクタイバによって実施された中央アジア征服をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配・イスラーム化が始まった[25]。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市にモスク(寺院)が建立され、遠征に従軍したアラブ兵の移住と征服地の住民のイスラームへの改宗が推進されたといわれている[26]。クタイバの死後、715年から737年までの間、マー・ワラー・アンナフルは突騎施によって占領される[27]。マー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って毎年のように続くウマイヤ軍とソグド諸国・突騎施連合軍の戦争から逃れるため、多くのソグド人が東方に避難した[28]739年にウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはシル川の河畔で突騎施の指導者莫賀達汗を捕らえ、ソグド諸国と和平を締結し、マー・ワラー・アンナフルの奪回に成功した[29]

ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの治世にソグド人の反乱が鎮圧され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配は確固たるものになる[30]。そして、751年アッバース朝タラス河畔の戦い高仙芝の率いる唐軍に勝利を収め、中央アジアにおける唐の勢力は大きく後退した[31]。アッバース朝のカリフマアムーンの奪権に貢献したサーマーン朝は、マアムーンの委任を受けてマー・ワラー・アンナフルからホラーサーンにまたがる領域を支配した。サーマーン朝の元では、イラン文化の復興が推進される[2]

サーマーン朝は東方から進出してきたテュルク系のカラハン朝に滅ぼされ、サマルカンドやブハラはカラハン朝の王族たちによって統治された。10世紀末から11世紀にかけてカザフスタンからシル川までの地域に居住していたテュルク系遊牧民族のオグズがシル川を越えて南下し、テュルク系民族の移動はマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立の契機となる[32]。パミール高原西部のテュルク化はすでに6世紀後半の西突厥の時代から始まっており、8世紀初頭のムグ文書にはテュルクの言葉に由来する定住民の人名や地名が確認できる[33]。カラハン朝の時代からマー・ワラー・アンナフルは天山ウイグル王国が支配する「東トルキスタン」に対する「西トルキスタン」と化し[34]、支配者の言語としてテュルク諸語が浸透していった[1]。イランに移動したオグズの一団がセルジューク朝を建国した後、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラム圏の東方地域を形成していた[6]ティムールが台頭する14世紀までに、この地域のテュルク化はほぼ完了していたとされている[35]

カラハン朝は13世紀初頭、ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによって滅ぼされ、サマルカンドは一時ホラズム・シャー朝の首都になった。しかし、程なく1219年、モンゴル高原から勃興したチンギス・カン率いるモンゴル帝国によってマー・ワラー・アンナフル全域は侵攻を受け、サマルカンドやブハラなどの諸都市はモンゴル帝国軍の攻撃によって破壊され、あるいは降伏後に城壁が破却されるなどした。モンゴルの侵入はマー・ワラー・アンナフルの経済に多大な打撃を与え、後述するティムール朝の時代に入ってかつての繁栄を回復する[2]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l 堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁
  2. ^ a b c d e f g 久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁
  3. ^ 長沢『シルクロード』、173頁
  4. ^ a b c 間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁
  5. ^ 川口『ティムール帝国』、116頁
  6. ^ a b c d 松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁
  7. ^ 川口『ティムール帝国』、112-113頁
  8. ^ Transoxanien und Turkestan zu Beginn des 16. Jahrhunderts;: Das Mihman-nama-yi Buhara des Fadlallah b. Ruzbihan Hungi (Islamkundliche Untersuchungen)Fazl Allah ibn Ruzbahan (Author)
  9. ^ 川口『ティムール帝国』、116-117頁
  10. ^ 川口『ティムール帝国』、117頁
  11. ^ a b 川口『ティムール帝国』、115-116頁
  12. ^ 間野『中央アジアの歴史』、47頁
  13. ^ 川口『ティムール帝国』、115頁
  14. ^ a b c 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、43頁
  15. ^ 間野『中央アジアの歴史』、48頁
  16. ^ 長沢『シルクロード』、107-108,131頁
  17. ^ 間野『中央アジアの歴史』、51頁
  18. ^ 間野『中央アジアの歴史』、80頁
  19. ^ 間野『中央アジアの歴史』、87-88頁
  20. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、45頁
  21. ^ 長沢『シルクロード』、260-261頁
  22. ^ 長沢『シルクロード』、174-175頁
  23. ^ 長沢『シルクロード』、174-176頁
  24. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、49頁
  25. ^ a b 間野『中央アジアの歴史』、114頁
  26. ^ 間野『中央アジアの歴史』、115-116頁
  27. ^ 長沢『シルクロード』、291頁
  28. ^ 長沢『シルクロード』、308-309頁
  29. ^ 長沢『シルクロード』、292,310頁
  30. ^ 間野『中央アジアの歴史』、116頁
  31. ^ 長沢『シルクロード』、310頁
  32. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、74-75頁
  33. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、44頁
  34. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁
  35. ^ 間野『中央アジアの歴史』、112頁
  36. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、121-122頁
  37. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、123-124頁
  38. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、128-129頁
  39. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、129頁
  40. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、132頁
  41. ^ 川口『ティムール帝国』、110頁
  42. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、140頁
  43. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142頁
  44. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142-143頁
  45. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、143-146頁
  46. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、145-146頁
  47. ^ 長沢『シルクロード』、390,420頁





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