マット・ワトソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 13:25 UTC 版)
経歴
千葉入団前
1999年のMLBドラフト16巡目でモントリオール・エクスポズに入団。2003年にニューヨーク・メッツでメジャー昇格。
2006年は3A・サクラメントで打率.317、5本塁打の好成績を残した。
ロッテ時代
同年5月に千葉ロッテマリーンズが獲得を発表[1]。5月23日に入団会見が行われ、背番号は19に決まった[2]。
2006年のロッテには既に投手2人(ケビン・バーンとジャスティン・ミラー)・野手3人(ベニー、マット・フランコとヴァル・パスクチ)の5人の外国人がいたため、ワトソンの入団によって支配下外国人選手が6人になっていた。
6月2日に初めて一軍登録され、「2番・右翼手」でスタメン出場。来日第2打席で2点本塁打を放った。6月7日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、8回表に平井正史から決勝本塁打を打った[3]。6月10日の対読売ジャイアンツ戦(千葉マリンスタジアム)では9回裏二死一塁の場面で代打で出場し、林昌範からサヨナラ二塁打を放った[4]。7月15日の対西武ライオンズ戦(千葉マリンスタジアム)でも、9回裏二死一塁の場面で松坂大輔から右中間へサヨナラ二塁打を打った[5]。
日本野球への高い適応力を見せたものの、シーズン終盤ではパワー不足で成績が伸び悩み、9月19日にパスクチとともに一軍登録抹消。12月時点では契約保留選手となっていた。
2007年1月5日、ロッテと年俸40万ドル+出来高払いの1年契約で残留が決定[6]。4月3日に右脇腹痛の福浦和也に代わり一軍昇格した[7]が、この年は打率が2割をわずかに超える程度の不振で、ライトか指名打者でしか使えないこともありサブローの復帰後は二軍暮らしが長く続いた。オフの11月9日に戦力外通告を受けて退団が決定し、11月16日付で自由契約公示された。
斗山時代
同年4月9日のハンファ・イーグルス戦で許維新から本塁打を放ったが、それ以降は低打率のため4月中に2軍へ降格すると、その後1軍へ昇格できず5月24日に退団となった。
斗山退団後
6月にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだが、不振のまま7月に放出される。
その後、彼は地元・ランカスターの独立リーグ・アトランティックリーグのチーム・ランカスター・バーンストーマーズと契約を結んだ。
2010年はオークランド・アスレチックスとマイナー契約。5年ぶりにメジャーリーグ公式戦出場を果たした。その後、再び、ランカスター・バーンストーマーズと契約した。
- ^ 「ロッテに新外国人 ワトソン外野手獲得を発表/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)、2006年5月19日、東京朝刊 スポB 22頁。
- ^ 「ロッテのワトソンが入団会見/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)、2006年5月24日、東京朝刊 スポB 18頁。
- ^ 「ロッテの成瀬、13奪三振で2勝目/ロッテ2―1中日」『読売新聞』(読売新聞社)、2006年6月8日、東京朝刊 スポA 23頁。
- ^ 「Gミスミス5連敗/ロッテ3―2巨人」『読売新聞』(読売新聞社)、2006年6月11日、東京朝刊 スポB 28頁。
- ^ 「レオ、サヨナラ負け “敢投”松坂サバサバ/ロッテ1―0西武」『読売新聞』(読売新聞社)、2006年7月16日、東京朝刊 スポB 22頁。
- ^ 「ロッテ、ワトソンと1年契約/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)、2007年1月6日、大阪朝刊 スポC 18頁。
- ^ 「プロ野球登録・抹消=4月3日」『読売新聞』(読売新聞社)、2007年4月4日、東京朝刊 スポB 20頁。
固有名詞の分類
アメリカ合衆国の野球選手 |
ジェド・ロウリー グレイディ・サイズモア マット・ワトソン グレンドン・ラッシュ トミー・ハンソン |
千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 |
福澤洋一 新井昌則 マット・ワトソン 園田喜則 高橋慶彦 |
ニューヨーク・メッツの選手 |
ロベルト・ペタジーニ クリフ・フロイド マット・ワトソン グレンドン・ラッシュ ボビー・ボニーヤ |
オークランド・アスレチックスの選手 |
ロジャー・レポーズ ドン・ブレイザー マット・ワトソン ティム・バートサス スコット・サービス |
斗山ベアーズ及びOBベアーズの選手 |
吉本博 金善宇 マット・ワトソン 文東煥 レス・ウォーランド |
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