ベルリン封鎖
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ソ連側の対応
ソ連は軍事面では優位に立っていたが、戦争で疲弊した経済と社会の復興に専念していた。アメリカはより強力な海軍と空軍があり、核兵器も所有していた。両国は戦争は最早望んでおらず、ソ連は空輸の停止は求めなかった[71]。
当初の反応
西側諸国による空輸が盛んになるのに対し、ソ連は東ベルリンへ来た者に対して無料で食料を提供し、配給カードの登録を行なうようにした結果、1948年8月4日までで2万2000人のベルリン市民がこのカードを受け取っていた。1949年には10万人の西ベルリン市民が東ベルリンでソ連の配給を受け取っていたとされるが、西ベルリン市民の中にはソ連の食料の配給を拒絶したものもいた[72][73]。
空輸の間、ソ連とドイツの共産主義者は窮地にある西ベルリン市民に対して、心理戦を仕掛けていた[72]。ラジオ放送では、全ベルリンはソ連当局の元にあり、西側はまもなく占領を放棄し立ち去ると放送していた[72]。ソ連は、民主的に選出された行政府のメンバーに対して、ソ連領内にある市民ホールで執務しなければならないと嫌がらせをしてきた[72]。
空輸の最初の数か月は、ソ連は西側の空輸を様々な手段で嫌がらせをした。例えば、ソ連の飛行機による妨害行為、空中回廊内でのパラシュート降下での妨害、そして、夜間航行中の西側パイロットに対して、サーチライトで照らすなどと言った、嫌がらせ行為をしてきた。西側によると、対空攻撃などを含む733件の嫌がらせ行為があったとしているが、これについては誇張も含まれている。妨害行為は有効に機能しなかった[74][75]。イギリス空軍パイロットのディック・アルスコットは1件の妨害行為について、「ソ連の航空機が自機の20フィート上空につけてきて、いやな気分になった。ある日なんか3回も妨害飛行を受けた。次の日2回出くわした時点で、いい加減私はうんざりした。そんなわけで3回目の時は、機首を反転させ、奴の飛行機に向けた。幸いにも奴はおじけづいてどっかへ行った」と語った[76]。
ベルリン市政府における、共産主義者による一揆(プッチ)未遂
1948年の秋、ソ連支配下内での市民ホールで開催されるベルリン市議会で非共産系が大多数を占めるのは不可能であった[72]。議会は1946年10月20日のベルリン暫定憲法によって選出されていた。SEDの息のかかった警察官が見守る中、共産主義者が市庁舎にある市民ホールへと侵入し、議会の妨害を行い、非共産主義者を脅した[72]。ソ連はSEDによる市民ホールの乗っ取りを行う計画的な一揆を計画した[77]。
3日後、アメリカ軍占領地区放送局はベルリン市民に抗議を行なうよう呼びかけた。1948年9月9日、ブランデンブルク門で50万人が集まった。空輸はその時点ではうまくいっていたが、西ベルリン市民は西側が空輸を止めてしまうのではないかということを危惧していた。SPDの市議会議員であったエルンスト・ロイターはマイクを持ち、「世界の人々よ!アメリカ、イギリス、フランスの人々よ!この街を見よ!この街のベルリン市民を見捨ててはならないし、見捨てられるはずもないと理解してくれ!」と述べた[45]。
抗議活動の参加者はソ連占領地区に殺到し、ブランデンブルク門にかかっているソ連国旗を引きはがした。ソ連の憲兵は素早く対応し、抗議に参加した者の内1人が死亡した[45]。張り詰めた状況はますます深刻化し、さらなる流血沙汰もあったが、イギリスが介入し、ソ連の憲兵隊を追い払った[78]。これほど多くのベルリン市民が一同に会することはなかった。世界的な反響を呼び、とくにアメリカでは、ベルリン市民の強固な団結に対して、見捨てずに空輸を続けるべきだいうことが確立された[77]。
ベルリン議会は19.8 %の議席を占めるSEDがボイコットしてしまい、ベルリン工科大学の食堂で開催することを決定した。1948年11月30日、SEDが選出した議員と1,100人の共産主義者をかき集め、東ベルリンのメトロポル劇場で、選出済みの市政府と民主的に選出された市議会議員を解任し、フリードリヒ・エーベルト率いる共産主義者にとって変えるという、違憲の臨時市議会を開催した[77]。このような動きに対して、西ベルリンでは法的には有効と見なされなかったが、ソ連側は東側での活動を妨害してきた。
11月の選挙結果
市議会はSEDによってボイコットされ、1948年11月5日に再選挙が開かれたものの、分離選挙として、SEDから貶められ、東側では選挙の妨害が行われた。民主系の政党が議席を獲得するために立候補する一方で、SEDはこの選挙には誰も候補者は立てず、選挙のボイコットを西側で呼びかけた。しかし、選挙の結果は、西側の有権者の投票率は86.3 %で、社会民主党(SPD)が64.5 %(=76議席)を得票し、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)は19.4 %(26議席)、LDP(ドイツ自由民主党)は16.1 %(17議席)を獲得した[72]。
12月7日、新しい西ベルリン市議会が事実上の西ベルリン市の政府となり、市長はソ連の妨害にはあったものの、1946年初めに着任していたエルンスト・ロイターが再度市長を務めることになった[77]。このように東西2つに分断された市政府が公認されることになった。東側では、家、通り、区単位の首長によって、共産主義体制が構築された。
西ベルリン議会はベルリンの事実上の分断を公表し、1950年10月1日発効のベルリン暫定憲法の実行範囲を西側に限定し、その他市議会、市政府、政府首長の名称を変更していった[79]。
注釈
- ^ 西側の社会民主党(当時は東ベルリンでの活動も許されていた)が第一党、ドイツキリスト教民主同盟が第二党となり、社会主義統一党は第三党にとどまった。
出典
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