ブルーショットガン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 15:53 UTC 版)
ブルーショットガン | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
![]() 2009年1月17日 京都競馬場 | ||||||
欧字表記 | Blue Shotgun[1] | |||||
品種 | サラブレッド[1] | |||||
性別 | 牡[1] | |||||
毛色 | 鹿毛[1] | |||||
生誕 | 1999年5月2日[1] | |||||
死没 | 2021年8月12日(22歳没) | |||||
登録日 | 2001年4月5日 | |||||
抹消日 | 2009年2月7日 | |||||
父 | サクラバクシンオー[1] | |||||
母 | オギブルービーナス[1] | |||||
母の父 | スーパークリーク[1] | |||||
生国 |
![]() | |||||
生産者 | 武牧場[1] | |||||
馬主 |
(株)荻伏レーシング・クラブ →(株)ブルーマネジメント [1] | |||||
調教師 | 武宏平(栗東)[1] | |||||
競走成績 | ||||||
生涯成績 | 68戦7勝[1] | |||||
獲得賞金 | 2億2645万8000円[1] | |||||
|
経歴
競走馬時代
2001年、デビュー戦では武幸四郎騎手が騎乗し2着となり、2戦目で初勝利を挙げる。初の重賞となった函館2歳ステークスでは、5番人気だったが最下位となる13着という結果に終わった。続く2歳500万下のレースでは横山典弘騎手が騎乗するも10着、続く2歳500万下では武英智騎手が騎乗するも6着と2勝目を挙げられず2歳を終えた。
2002年、7月の3歳上500万下のレースで松永幹夫騎手が騎乗してレースに勝利し約1年ぶりの勝利を挙げ、 続くキーンランドカップ(当時1000万下)にも勝利し2連勝する。その後の2戦こそ敗れたが、清水ステークス(1600万下)を制しオープン馬となる。
2003年、函館スプリントステークスに出走するなどするが、勝利することなく再び降級となって出走した桂川ステークス(1600万下)に勝利する。
2004年、この年も函館スプリントステークスに出走するがこの年は未勝利に終わる。
2005年、3度目となる函館スプリントステークスに出走するなどし、12月の六甲アイランドステークス(1600万下)で勝利し再度オープン馬となった。
2006年、この年3戦目の阪急杯ではこの日で騎手引退となる松永幹夫騎手を鞍上に11番人気と低評価ながら勝利し[2]、7歳で重賞初勝利を挙げた。この年も函館スプリントステークスに出走し3着となる。
故障も少なく8歳となっても走り続け、2007年、連覇を目指した阪急杯では、最下位となる16着。続く福島民報杯では5着となって、この年も函館スプリントステークスに出走するも11着という結果に終わった。キーンランドカップで60戦目の出走となり、13着に終わる。続く福島民友カップは6着に終わる。ついには障害戦へ参戦。初戦は折り合いを欠き、レースの途中から逃げを打ち5着に終わった。
2008年、障害2戦目を走るが12着に敗れた。その後、半年近くの休養を挟み、8月のUHB杯に出走したが、11着に終わった。続く福島民友カップでは最下位の16着だった。続くオーロカップでは18番人気とシンガリ人気になり、結果もまたもや最下位の18着に敗れた。続く尾張ステークスでは人気通りの17着に敗れた。
結局阪急杯以降は勝ち星を挙げることなく、2009年の淀短距離ステークスが最後の出走となり、最下位の16着に敗れた。このレースを最後に引退となり、2月7日付でJRA競走馬登録を抹消され、現役を引退した[3]。
引退後
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F9%2F99%2FBlue-Shotgun20110227.jpg%2F250px-Blue-Shotgun20110227.jpg)
引退後は、競馬学校を経て、阪神競馬場で誘導馬としての訓練を消化し、2010年の第3回阪神競馬より誘導馬として活動を開始して2014年10月5日まで在籍[4]。その後は秋田県秋田市のあきた乗馬クラブに移動し、そこで繋養されていた[5]が、2021年8月12日、同クラブにて死亡した[6]。22歳没。
エピソード
- 生産牧場は武牧場(武宏平師の弟が前経営者)、武宏平厩舎所属、武豊騎手、武幸四郎騎手、武英智騎手が騎乗経験があり、さらに母の父は武豊騎手がかつて騎乗していたスーパークリークであり、武一族にまつわる馬でもある。
- 函館スプリントステークスには2003年から2007年まで5年連続で出走した。ちなみに最高位は2006年の3着である。
- 2006年、この年の阪急杯は、調教師に転身するために引退する松永幹夫当時騎手にとっての現役最後の重賞騎乗となった。前走の凡走の結果などから11番人気という低評価だったが、同馬にとって最初の、同騎手にとっては最後の重賞勝利を挙げた。同騎手は最終騎乗となる次のレースをフィールドルージュで勝利し通算1400勝を達成した。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “ブルーショットガン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2022年10月11日閲覧。
- ^ “第50回 阪急杯”. netkeiba.com. netkeiba.com. 2006年2月26日閲覧。
- ^ “ブルーショットガンが引退、競馬学校で乗馬に”. netkeiba.com. 2022年3月12日閲覧。
- ^ “ブルーショットガンが誘導馬引退、阪神競馬場で最後のお披露目”. netkeiba.com. 2015年1月31日閲覧。
- ^ “ブルーショットガン”. 引退名馬. ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2015年1月31日閲覧。
- ^ “ブルーショットガン死す 22歳 11番人気で06年阪急杯V”. スポニチアネックス. 2021年8月17日閲覧。
- 1 ブルーショットガンとは
- 2 ブルーショットガンの概要
- 3 競走成績
- 4 血統表
固有名詞の分類
- ブルーショットガンのページへのリンク