フィアット・500 初代(1936 - 1955年)

フィアット・500

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 08:08 UTC 版)

初代(1936 - 1955年)

トポリーノ

1936年に発表された2人乗りの小型車で、1955年まで製造された。500Aと、その改良型である500Bおよび500Cが該当する。

発表当時の高度なメカニズムを多数取り入れたことで、戦前から戦後を通じて大きな商業的成功を収め、総計約60万台が生産された。

一般的にはハツカネズミを意味する「トポリーノ」の愛称で呼ばれているが、この愛称は、その小柄なボディと小さなエンジンで機敏に走り回るさま、そして前期モデルシリーズにおける、丸みのあるボンネット脇のやや高めの位置に外付けされたヘッドライトなどによる愛嬌ある外観から名付けられたものである。

1930年代中期、フィアットでは1932年に発表した1,000cc級の小型車・508「バリッラ」の販売が好調であったが、当時のフィアット総帥であるジョヴァンニ・アニェッリは、大衆向け自動車市場のさらなる開拓を目論み、バリッラよりも小型の乗用車を市場に送り出すことを企画した。開発にあたったのは元航空機技術者のアントニオ・フェッシアを中心とするチームで、その中には後のフィアット主任技術者として数々の傑作車を開発することになるダンテ・ジアコーサがいた[注 1]

フィアットは、すでにバリッラでアメリカのクライスラーの流儀に倣った4輪油圧ブレーキと鋼製ボディを採用していた。また1935年に発売された6気筒エンジンの中級車「フィアット1500」では、当時としては前衛的な空力流線型スタイルの効果で、1クラス上の旧型2L車を凌ぐ性能を確保することに成功し、さらに前輪独立懸架も採用していた。それらの先行成果は、新しいミニマムカーに惜しげなく応用された。

こうして開発された初代500は、当初5,000リラという激安価格での販売が計画されていたが、高度なメカニズムを詰め込んだ結果、製造コストが想定以上にかかり、実際の販売価格は8,900リラにまで跳ね上がってしまった。それでも従来の自動車に比べれば大幅に廉価であったことから、イタリアの大衆から歓迎され、派生型の商用モデルの展開も手伝って、当時の国民車として大成功を収めた。戦時中の生産中断はあったものの、後継車種の500Bにマイナーチェンジされる1948年の生産終了までに約12万2,000台が生産された。

500C

500Bのイタリア本国での売れ行きは戦後も順調で、1949年にはボンネット周りを1940年代のアメリカ車風にヘッドライトのフェンダー埋め込み化するなどデザインを近代化した500Cが登場。1951年に追加された4座ワゴンタイプの「ベルベデーレ」を含むトポリーノ系列は、生産期間末期まで好調な販売を維持し、後継となるリアエンジン車の600(セイチェント)が発売される1955年まで生産された。

また、フィアット資本の入ったフランスシムカでもシムカ5(サンク)の名称で、1937年から同型車両がノックダウン生産された。フランスにおいて当時同等サイズのミニカーがなかったことからヒット作となったが、戦後の1946年にルノー・4CV、1948年にシトロエン・2CVという近似クラスの4ドアで4人乗りのフランス製大衆車が発売されると、2人乗りの不利さから急激に販売は落ち込み、1950年までに生産中止となった。

メカニズム

シャシは当時のスタンダードである独立したラダーフレームを持つ一方、流線型の全鋼製ボディや油圧ブレーキに加え、先端技術である前輪独立懸架を導入した、この時代の超小型車としては極めてぜいたくなものであった。水冷エンジン、FRを採用した。

小型のエンジンを前車軸前方にオーバーハングさせ、重心を前方に傾けて操縦性に配慮するとともに、ホイールベース間でドライバーが足を伸ばせる十分なスペースを確保するなどの工夫がなされていた。1934年のクライスラー・エアフローが前方荷重を高めることで操縦性と居住性を改善した成果を小型車にまで広げたものといえ、ヨーロッパでも先駆的な手法を取り入れた車両だった。

エンジンはサイドバルブ・2ベアリングという最低限の仕様ながら、上級車種並みの水冷4気筒となっており、排気量569ccで13.5PSを発生した。ラジエーターフロントグリルがエンジン前方で曲線を描いて後傾していることから十分な高さが取れず、バルクヘッド(エンジンルームと室内の隔壁)直前に搭載している。またこの配置により、冷却水の比熱の差で自然循環するサーモサイフォン現象を利用しており、独立したウォーターポンプを持たない。エンジンは1948年の500Bへのマイナーチェンジに際して排気量570ccのOHV・15.7PSに強化・拡大されている。

ドアは後ヒンジの前開き(スーサイドドア)である。後年の安全性重視の見地からすると必ずしも好ましくはないが、当時はそれよりも乗降性を重視して採用された。

通常モデルの定員は2人であるにもかかわらず、ユーザーはお構いなしに座席後にまで無理矢理乗り込み、4人や5人といった定員超過をしばしば敢行した。これにより後輪固定軸を支えるリーフ式サスペンション(1/4カンチレバーリーフ)が折れるトラブルが多発したことを受けて、1938年には後車軸スプリングが1/2半楕円リーフに強化されている。

1953年にイタリアでのロケーションで製作されたアメリカ映画『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督)では、オードリー・ヘプバーン扮するヒロインの王女を撮影しようとするカメラマン(エディ・アルバート)の足車として前期型のトポリーノが登場し、主人公の新聞記者(グレゴリー・ペック)のベスパスクーターと共にローマの街を走り回るが、劇中、カメラマンと新聞記者が乗車した前席の後に王女が立ち乗りするシーンがある。これは、イタリアにおけるトポリーノの実際の乗られ方を踏まえた演出ともいえる。


注釈

  1. ^ 「500はジアコーサの処女作」という説が流布しているが、彼は開発に関わってはいたものの主任技術者ではないため、その意味では誤説である。

出典

  1. ^ “「フィアット500保護法」成立間近!?”. レスポンス. (2004年10月28日). http://response.jp/issue/2004/1028/article65097_1.html 2020年11月20日閲覧。 
  2. ^ 大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、2013年。ISBN 978-4168122002 
  3. ^ 写真で見るフィアット「500 バニライエロー」”. Car Watch (2009年10月19日). 2020年11月20日閲覧。
  4. ^ “バニライエローのフィアット500、オンライン受注開始…抽選で70台限定”. レスポンス. (2014年12月15日). https://response.jp/article/2014/12/15/239681.html 2020年11月20日閲覧。 
  5. ^ 体験レポート VOL .27 万博の展示物はど~なるの?”. EXPO 2005 AICHI,JAPAN (2005年9月20日). 2020年11月20日閲覧。
  6. ^ "フィアット初の電気自動車「FIAT 500e」を発表" (Press release). Stellantisジャパン株式会社. 5 April 2022. 2023年3月20日閲覧
  7. ^ アバルト 500 新型、EVのフィアット『500e』がベース…11月22日実車発表予定”. レスポンス(Response.jp) (2022年11月10日). 2022年11月11日閲覧。
  8. ^ a b アルマーニにブルガリ仕様も!LAオートショーでFIATからスタイリッシュなデザイナーズカーが登場”. @DIME アットダイム. 小学館 (2022年12月10日). 2022年12月12日閲覧。






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