バギオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 16:10 UTC 版)
歴史
マゼランが1521年にセブ島に上陸して以来約350年間スペインがフィリピンを植民地支配していた。1898年、米西戦争の結果、スペインを破ったアメリカが僅か$2000万でフィリピンを買い受け、以後スペインに代わってアメリカがこの地を植民地とした。その支配はフィリピンが1946年に独立を果たすまで続いた。このアメリカ支配時代、マニラの暑さに耐えかねたアメリカ人らによって避暑地としてのバギオの開発がはじまった。
バギオと日本人
バギオ開発の当初、道路建設で難渋したアメリカ人は日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託した。移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者を出しながらようやく1903年に完成した。道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されているとのこと。
この建設に従事した日本人の一部はフィリピン人と結婚するなどして現地に残った。彼らの中にはその勤勉さでもって事業に成功した人も多く、結果、現地の日本人の地位は次第に向上し、第二次大戦が起こる以前の時代その繁栄はピークに至った。戦争中の1943年11月27日には、バギオに領事館が設置されている[3]。
シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力した。一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大に尽力し、バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られた。1989年シスター海野が死去した後、その活動はカルロス寺岡・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各人に引き継がれ今日に至っている。その後の日系人社会の発展と現地のフィリピン人の生活向上に尽くしてきたことで、彼らは比日両国民から尊敬を集めている。
このような歴史からバギオと日本人の関わりは非常に深いものがある。
- ^ “Climatological Normals of the Philippines (1951-1985)”. PAGASA (2011年). 2011年11月22日閲覧。
- ^ “未曾有の台風30号、フィリピン直撃”. 森田正光 (2013年11月8日). 2013年11月10日閲覧。
- ^ 『官報 昭和18年12月27日 第5087号』p.495、大東亜省告示第70号 「フィリピン」國「バギオ」ニ帝國領事館ヲ設置
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