ナクシュバンディー教団 本拠

ナクシュバンディー教団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 21:24 UTC 版)

本拠

歴史

創設

創設者は14世紀ブハラで活動したバハー・ウッディーン・ナクシュバンド英語版(Bahā' al-Dīn Naqshband、1318-1389)。彼の名にちなんでナクシュバンディー教団と呼ばれている[2]

バハー・ウッディーン・ナクシュバンドは、もともとホージャ・アブド・アルハーリク・グジドゥワーニー英語版(Abd al-Khāliq Ghijduwānī、1103-1179)が創設したホージャガーン教団に属していた[2]

ホージャ

指導者アフマド・カーサーニー(マフドゥーミ・アァザム[3]、1464-1542)の子孫の称号はホージャとよばれた[要出典]。ホージャは、ティムール朝の崩壊以降[4]東トルキスタンウイグル人の指導者としての役割を担い、17世紀から19世紀にかけての東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区一帯)地域の政治に大きな役割を果たした。「カシュガル・ホージャ家」とも呼ばれる[3]

イスハーキーヤ(黒山党)とアーファーキーヤ(白山党)

アフマド・カーサーニーの次男のムハンマド・イスハーク・ワリー(?-1599)はサマルカンドからカシュガルホータンアクスクチャに滞在し、1599年にサマルカンドに帰還した[5]。ムハンマド・イスハーク・ワリーの系統は、カシュガル・ホージャ家のイスハーキーヤまたはカラタグルク(黒山党)[5]とよばれた。

他方、アフマド・カーサーニーの長男のイーシャーニ・カラーン[6]ムハンマド・アミーン)の系統がある。ムハンマド・アミーンの子はホージャ・ユースフ(?-1652)といい、東トルキスタンに移住した。ホージャ・ユースフの子がホージャ・アファークとして知られるダーヤット・アッラーであった[7]。この系統は、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山党)と呼ばれた[7]

ホージャ・アファークの没後、息子のホージャ・ヤフヤーが継いだが殺害された[3]。チャガタイ家のアクバシュ・ハーンはその他のホージャ・アファークの息子たちをインドへ送還したという[3]

アーファーキーヤ(白山党)はイスハーキーヤ(黒山党)との抗争に敗北し、東トルキスタンを追放され、1671年から1672年にかけて西寧(現在の青海省西寧市)に移り[7]、そこで布教に成功し、おおくの中国ムスリム信徒(回民)を獲得した[7]

白山党の一派にアーファーク統がある[6]

分派


  1. ^ 世界大百科事典 第2版『ナクシュバンディー教団』 - コトバンク
  2. ^ a b 川本正知,2012.
  3. ^ a b c d 河原弥生,2006.
  4. ^ 河原弥生,2006.
  5. ^ a b 小松2000,p303
  6. ^ a b 新免康・菅原純:2002.
  7. ^ a b c d 小松2000,p304





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