トゥール・ポワティエ間の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 01:01 UTC 版)
影響
このフランク人の勝利はムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、ピレネー山脈を超えてフランス王国領内にアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て、「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。そしてこの戦いによって、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシアの宮宰出身であったカール・マルテルの息子小ピピンは教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。小ピピンは息子に王位の世襲を行わせたため、小ピピンの息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(800年にフランク・ローマ皇帝として戴冠。)である。
ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いだが、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。(一方エドワード・ギボンは自著『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。)
一方で、イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパとは違い著しく異なる。
備考
SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世の暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類史最大の悲劇の一つ」と評している。
- ^ MIZUKAMI, Ryo (2014). “The Group Ijāza Referred to by Ibn al-Fuwaṭī in the Late 13th Century”. Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan 57 (1): 62–72. doi:10.5356/jorient.57.1_62. ISSN 0030-5219 .
- ^ Legal History Review (34): 436–439. (1984). doi:10.5955/jalha.1984.436. ISSN 1883-5562. https://doi.org/10.5955/jalha.1984.436.
- ^ a b c “battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。[リンク切れ]
固有名詞の分類
フランスの戦闘 |
プエブラの会戦 アレクサンドリア攻囲戦 トゥール・ポワティエ間の戦い マダガスカルの戦い ビトリアの戦い |
イスラム国家の戦闘 |
タラス河畔の戦い スィッフィーンの戦い トゥール・ポワティエ間の戦い マルジュ・ダービクの戦い チャルディラーンの戦い |
- トゥール・ポワティエ間の戦いのページへのリンク