ディエップの戦い 前段階

ディエップの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 02:44 UTC 版)

前段階

ディエップの位置

作戦は防御が薄い北フランスのディエップに上陸、攻撃ののちに6時間で撤退することを目標とし、恒久的な橋頭堡の確保は考えられていなかった。

そのため作戦の目的は判然としておらず、ヨーロッパ大陸上陸・侵攻に備えての演習を意図したとする説、レーダーサイトの機材強奪を狙ったとする説、第二戦線構築を要求するソ連への体面説[注釈 1]など諸説ある。いずれにしても、連合国の戦争準備はまだ不完全かつドイツ軍の勢力は未だに強大で、大規模な欧州反抗(欧州本土侵攻)は不可能であった。

当初、作戦は1942年7月4日以降の好天の日に決行されることとなっていたが、悪天候が続き総指揮官のバーナード・モントゴメリーは奇襲攻撃の意義が無くなることを懸念し、中止する意向だった[1]。これに対し、ルイス・マウントバッテンが決行を主張したため、攻撃は8月に実施されることとなった[1]。さらに、事前のイギリス空軍による爆撃が一般人に対し被害を与えることが懸念されるとして中止され、空挺部隊による海岸砲台の制圧も天候の不安定を理由に中止され、代わりにコマンド部隊がその任務を実施することとなった[1]。また、駆逐艦以上の大型艦をイギリス海峡には入れないという当時のイギリス海軍の方針をくつがえすことができず、艦砲射撃による支援も不充分なものとなった[1]

奇襲であることが作戦の要であったため、作戦の準備は高度な情報統制の中で進められた。ところが、軍事雑誌『』の調査によれば、作戦決行2日前に、ロンドンイギリス軍高級将校がパーティ席上でこの作戦の内容を口外してしまった[注釈 2]。情報はすぐにロンドン市内のドイツ諜報組織に知られ、本国に伝えられた。この情報を基にドイツは可能な限りの防備を進めたが、侵攻に対応していることでイギリス国内に築いている諜報体制を把握されることを避けるため、また奇襲上陸を意図している連合軍に対して「逆奇襲」とも言うべき迎撃を行うため、この地域の防御が手薄に見えるように偽装工作を行なった。


注釈

  1. ^ 当時、イギリス・アメリカ共にドイツへの陸上からの攻撃は実施しておらず、ドイツおよびその同盟国の巨大な兵力が東部戦線、すなわちソ連との戦闘に投入されていた。スターリンは、ドイツの戦力を少しでも分散させるため、西ヨーロッパに米英軍が上陸して「第二戦線」すなわち西部戦線を形成する事を強く要望していた(笹本駿二『第二次世界大戦下のヨーロッパ』岩波新書、その他による)。
  2. ^ 『丸』によると、この高級将校は上流階級や有力者に広く交友があり、そのため名前・所属等は一切秘匿されたままで、処罰はされていない。

出典

  1. ^ a b c d メッセンジャー (2005)、p.20
  2. ^ メッセンジャー (2005)、p.169






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