ディエップの戦い 戦闘と敗北

ディエップの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 02:44 UTC 版)

戦闘と敗北

浜辺に遺棄されたイギリス軍のダイムラー偵察車

8月19日早朝、6,086人(5000人のカナダ軍(カナダ第2歩兵師団[2])と1000人のアメリカ軍とイギリス軍)が作戦を開始したが、ドイツ側は既に迎撃準備を整えており、連合軍をやすやすと上陸させて、至近距離まで引き付けて攻撃の火蓋を切った。連合軍は、待ち構えていたドイツ軍の強力な反撃にさらされ、狼狽して大混乱に陥った。30両のチャーチル歩兵戦車を揚陸したが、27両がコンクリート防壁に阻まれ、大粒の砂利に覆われ斜度のある海岸で履帯ピンを折損し、行動不能になるものが続出した。上陸した部隊も満を持したドイツ軍の砲撃・銃撃を受け大半が戦死傷または降伏し、また錯誤もあって連合軍軍艦が味方部隊を砲撃しさらに被害を増やした。ドイツ軍は空からも激しい攻撃を加え、連合軍軍艦は全て沈没・大破した。この戦闘に投入されたイギリスの戦闘機ホーカー ハリケーンはドイツ軍の戦闘機フォッケウルフ Fw190にまったく歯が立たず、上陸軍への有効な援護ができなかったばかりか、ドイツ空軍や対空砲火により大損害を受けている。

結局連合軍は3,894人の損害を出して、全く戦果がないまま撤退した。帰還できたのは2,000人余りで、ドイツ側の損害は59人と、ほぼ皆無であった。

その他

当時はドイツ軍が各戦域で優勢又は攻勢に出ており、イギリス国民の戦意は低く意気阻喪していたので、連合国側ではディエップの敗北は公式発表されなかった。

カナダ軍将校としてこの作戦に参加し生還した作家ファーレイ・モウワットは「石壁に卵を投げつけるも同然の戦い。そして我々がその卵にされた」と本作戦を酷評している。


注釈

  1. ^ 当時、イギリス・アメリカ共にドイツへの陸上からの攻撃は実施しておらず、ドイツおよびその同盟国の巨大な兵力が東部戦線、すなわちソ連との戦闘に投入されていた。スターリンは、ドイツの戦力を少しでも分散させるため、西ヨーロッパに米英軍が上陸して「第二戦線」すなわち西部戦線を形成する事を強く要望していた(笹本駿二『第二次世界大戦下のヨーロッパ』岩波新書、その他による)。
  2. ^ 『丸』によると、この高級将校は上流階級や有力者に広く交友があり、そのため名前・所属等は一切秘匿されたままで、処罰はされていない。

出典

  1. ^ a b c d メッセンジャー (2005)、p.20
  2. ^ メッセンジャー (2005)、p.169


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