ダンカン・マッカーサー ダンカン・マッカーサーの概要

ダンカン・マッカーサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 00:09 UTC 版)

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ダンカン・マッカーサー
Duncan McArthur
第11代 オハイオ州知事
任期
1830年12月18日 – 1832年12月7日
前任者アレン・トリンブル
後任者ロバート・ルーカス
アメリカ合衆国下院議員
オハイオ州第6選挙区選出
任期
1823年3月4日 – 1825年3月4日
前任者ジョン・スローン
後任者ジョン・トムソン英語版
オハイオ州上院議員英語版
ロス郡フランクリン郡ハイランド郡選出
任期
1805年 – 1813年
1821年 – 1823年
前任者エイブラハム・クレイプール
ジョセフ・カー
後任者ウィリアム・クレイトン・シニア
ジェームズ・ダンラップ (1805年-1813年)
デヴィッド・クロース (1821年-1823年)
オハイオ州下院議員英語版
ロス郡フランクリン郡選出
任期
1804年 – 1805年
1815年 – 1816年
1817年 – 1818年
個人情報
生誕 (1772-01-14) 1772年1月14日 or (1772-06-14) 1772年6月14日
イギリス領北米植民地 ニューヨーク植民地ダッチェス郡
死没 (66–67歳没)
アメリカ合衆国 オハイオ州チリコシー
墓地グランドビュー墓地英語版
政党
署名
兵役経験
所属国 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1812年 – 1815年
最終階級准将英語版
指揮北西方面軍英語版
戦闘米英戦争
  • マルコームズミルズの戦闘英語版

ニューヨーク州ダッチェス郡のスコットランド系移民の家に生まれ、ペンシルベニア州西部、のちにケンタッキー州に移り原住民の保護官として雇用された。1797年、マッカーサーはオハイオ川を渡って、1803年に州都となるオハイオ州チリコシーに移った。マッカーサーは周囲の土地に投資する事で豊かになった。

米英戦争中、民兵を務めていた間に彼はオハイオ州の第3選挙区から連邦下院議員に選出されたものの、民兵を務め続けることを好み職に適格ではなかった。彼はオハイオ州義勇軍の大佐に任命され、デトロイトのウィリアム・ハル将軍の副司令官となった。ハルが降伏した時、マッカーサーとルイス・カス大佐はデトロイトにおらず、そしてハルが降伏に両者も含めたことを聞き大いに怒ったとされる。英国の軍人が降伏を知らせた時、怒りのあまり彼は肩章を毟り剣を壊したという。それからマッカーサーは仮釈放されてオハイオ州に帰った。彼はアメリカ陸軍准将に任ぜられ、テムズの戦いの間、ウィリアム・ハリソンの下で旅団を指揮した。その後まもなく、ハリソン辞任後に北西部の軍の責任者になった。

マッカーサーはその後、オハイオ州下院議員と州上院議員、1823年から1825年までは連邦下院議員を1期務め、1830年には州知事選挙に当選、知事を1期務め再選は狙わなかった。

先代:
アレン・トリンブル
オハイオ州知事
1830年 - 1832年
次代:
ロバート・ルーカス



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