タレントゥム攻城戦 (紀元前212年)
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背景
カンナエの戦いでのローマの敗北[4]は、アプリアやカンパニアを含む南イタリアのローマ同盟都市に動揺を与えた[5][6]。中でもカプアはイタリア半島ではローマに次ぐ第2の都市であり、特に重要であった[7]。
カンパニアでは続く2年間、ローマとカルタゴの戦いが繰り返された。紀元前214年夏、ハンニバルはアヴェルヌス湖付近にいたが、タレントゥムからの使者が訪れ、街をローマから開放して欲しいとの懇願を受けた。ハンニバルは時機を見てその実行を約束した。南イタリアの古いギリシャ殖民都市であるタレントゥムは裕福であるだけでなく海に面していた。当時アドリア海対岸のマケドニアのピリッポス5世はカルタゴと同盟関係を結んでいた。やはり港湾都市であるブリンディジは依然ローマとの同盟を維持していたため、タレントゥムはフィリポス5世が陸軍派遣を決意した場合、それを受け入れるに最適であった[8]。
カルタゴ軍はネオポリス(現在のナポリ)付近を略奪し、ノラに向かった。執政官(コンスル)マルクス・クラウディウス・マルケッルスはこれを聞き、スエッスラ(en)に駐屯していた法務官(プレアトル)マルコ・ポンポニオ・マトーネ(it)をこれに向かわせた[9]。初日の戦いはローマの勝利に終わった(第三次ノラの戦い)[10]。翌日ローマ軍は戦場に再集結したが、ハンニバルは野営地に留まった。3日目の夜、ハンニバルは今回も含め3度失敗しているノラの占領を諦め、ローマ同盟都市の離反を狙ってタレントゥムへ向かった[11]。
この頃、法務官クィントゥス・ファビウス・マクシムス(en、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートルの息子)はルケラ(現在のルチェーラ)近くのヘルドニア(現在のオルドーナ)に駐屯していた[12]。他方、ハンニバルは周辺を破壊しながらタレントゥムに到着した。ティトゥス・リウィウスによると「タレントゥムの領域に入ってからは、タレントゥム市民に反感を抱かせないよう、いかなる破壊も行わなかった。」[13]。
続いて、約1,000人の兵士を、街の近郊1.5キロメートル付近に野営させた。カルタゴ軍到着の3日前、ブルンディシウム(現ブリンディジ)のローマ艦隊を指揮していた法務官マルクス・ヴァレリウス・レウィヌス(en)は、マルクス・リウィウスをタレントゥムに派遣した。リウィウスは直ちに優秀な若者を選び、奇襲を受けないように重要箇所や全ての城壁や門に配置した[14]。ハンニバルはアヴェルヌス湖に来た使者を信じ、タレントゥム周辺の破壊を行っていなかった。また、この時点でもなお、タレントゥムをローマから離脱させることを諦めていなかった。ハンニバルはここで冬営を行うことを決め、穀物を占領したメタポントゥム(en)とヘラクレア(en)から送らせた[15]。またヌミディア兵とマウレタニア兵もそこから送らせ、アプリア近くの丘陵地帯の耕地を完全に略奪し、兵に分配した[16]。
開戦の原因:人質の殺害と裏切り
リウィウスの記録から、ハンニバルは紀元前213年の夏にはタレントゥムの奪取を期待してサレントの田舎で過ごしていたことが分かる。紀元前212年初期には、いくつかの小さな都市がカルタゴ側に付いた[17]。
一方ローマは裏切りを防ぐために、タレントゥムとトゥーリの指導層から人質を取っていたが、親カルタゴ派からの薦めに従い、人質達はローマから脱走した。しかしテッラチーナで捕らえられ、杖で打たれた上にタルペーイアの岩から突き落とされて殺され、両都市を憤慨させることとなった[18]。ポリュビウスによると、タレントゥムの親カルタゴ派の市民は夜中に街から出てハンニバルの野営地に向かい(約3日の距離であった)[19]、使節としてハンニバルに面会に来た親ローマ派のリーダーであるフィルメノとニコーネを待ち伏せしていた[20]。彼らを逮捕した後、ハンニバルに街を渡すことを同意させた[21]。その後ハンニバルは彼らを釈放して街に戻らせ、市民を説得させるようにした[22]。2度目の使節がハンニバルに送られ、街を明け渡した場合にも税金は払わないこと、現在の法を維持し資産を保全することを要求した[23]。その代わりに、街中のローマ人の家の略奪は認めた。
ハンニバルは同一場所に長く留まっていることをローマ軍に疑われないように、病気を装っていた[24]。準備が整うと、10,000の優秀な歩兵と騎兵を率い、4日分の食料を持たせてタレントゥムに向かって出発した[25]。ヌミディア騎兵8騎のみを6キロメートル程度先行させたために、本軍10,000の存在は気付かれなかった[26]。ハンニバル自身もタレントゥムから22キロメートル程度まで接近していたが、指揮官達を召集して指示を与え、攻撃の夜を待った。目的は深夜に城壁に到達することであった[27]。
他方フィルメノは「テメディニの扉」と呼ばれる南側の塔の守備をしていた[28]ローマの守備隊長(リウィウスによるとマルクス・リウィウス・マカト、ポリュビウスによるとガイウス・リウィウス)の機嫌をとり、攻撃予定の日にアゴラ(街の中央の広場)近くのムセイオンでの宴会にその友人とともに招待した。ハンニバルはこの時を待っていた[29]。
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