ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザの概要

ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/18 01:44 UTC 版)

José Ernesto de Sousa
ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ
生年月日 (1921-04-18) 1921年4月18日
没年月日 (1988-10-06) 1988年10月6日(67歳没)
出生地 ポルトガル リスボン
死没地 同上
国籍 ポルトガル
職業 映画監督写真家著述家
ジャンル 映画写真ジャーナリズム
活動期間 1940年代 - 1988年
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来歴・人物

1921年4月18日、リスボンに生まれる。1940年代、リスボン理科大学で物理化学を学び、アフリカ美術展を組織した。『Seara Nova』、『Vértice』、『Mundo Literário』、『Colóquio Artes』といった新聞雑誌に執筆を始める。同時代のシュルレアリストたちと交流し、新現実主義の芸術や文学の批評家・理論家としての活動を開始する。

1946年、ポルトガル初のシネクラブ、「Círculo de Cinema」を設立。1948年、デ・ソウザとほかのクラブ幹部を逮捕するために、シネクラブの本部がポルトガルの秘密警察PIDE英語版に襲撃される。政治文化的な理由による初の事件であった。

1949年から1952年の間パリに留学し、シネマテーク・フランセーズパリ大学ソルボンヌ、IDHECに通った。そこでシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンのメンバーとなり、アンドレ・バザンフランソワ・トリュフォーと知り合う。マルリ=ル=ロワで、アラン・レネアニエス・ヴァルダ、ジャン・ミシェルとともに活動をした。

監督作『Dom Roberto』(1962年)は第15回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。

若いころから、芸術と写真の研究に没頭していた。オープンで論争的で先駆的な精神をもち、芸術的なフィールドでたくさんのことを主張し、研究した。視覚芸術映画演劇ジャーナリズム放送批評随筆。映画監督として、「ノヴォ・シネマ」の創始者のひとりとされ、パウロ・ローシャ監督の『青い年』(1963年)とともにその運動を開始した。デ・ソウザがもっとも打ち込んだ仕事、表現の中心は映画ではなく写真であった。

1988年10月6日、リスボンで死去。67歳没。

フィルモグラフィ

  • O Natal na Arte Portuguesa 1954年
  • Dom Roberto 1962年
  • Crianças Autistas 1969年

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