シンガサリ王国 クルタナガラ王の治世とシンガサリ王国の滅亡

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シンガサリ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/20 00:59 UTC 版)

クルタナガラ王の治世とシンガサリ王国の滅亡

ヴィシュヌワルダナ王が生涯を全うして亡くなると、1268年からクルタナガラが単独で親政をおこなうことになる。即位したときにシュリー・マハラジャディラジャ・シュリー・クルタナガラの尊称を得た。 クルタナガラ王が1269年に発布したサルワダルマ刻文を読むと当時の統治制度をうかがい知ることができる。まず、王を補佐する「上級大臣」ともいうべきマハーマントリとしてラクリャン・イ(マントリ)・ヒノ、ラクリャン・イ(マントリ)・シリカン、ラクリャン・イ(マントリ)・ハルが置かれた。マハーマントリたちの任務は、実務をおこなうラクリャン・マパティ、ラクリャン・ドゥムン、ラクリャン・カヌルハンといった実務をおこなう「大臣」たちに王の命令を通達することであった。これらの大臣たちの下にはタンダ・ラクリャン・リン・パキラキランという官僚集団が置かれた。また、サン・パムグッド(サムグッド)という官職が置かれた。宗教的な事柄については、ダルマデイヤクサリンという仏教指導者が王を助け、サンカダラという尊称を持つマハーブラーマナ(大ブラフマン)が王にしたがっていた。このようなクルタナガラの統治機構は、クディリ王国の制度を踏襲しているが、ラクリャン・カヌルハンに代ってラクリャン・マパティが上位に置かれたことに特徴がある。 1275年、クルタナガラは、「パマラユ」(ムラユの出来事)と称してスマトラのムラユ王国に対する遠征をおこなった。これは、マラッカ海峡の海上交易をジャワにとって有利にするための軍事行動であり、クディリ王国がシュリーヴィジャヤを攻撃したような、ジャワの王朝にとっての伝統的な対外政策のひとつであった。この結果、クルタナガラは、ムラユの属国化に成功したことを、スマトラ中部のバタンハリ川上流パタン・ロチョで発見された仏像台座の銘文に見ることができる。1286年にクルタナガラ王の命令で、不空羂索観音像がムラユに送られると、ムラユ王マウリワルマデーワをはじめとしてムラユの臣民が歓喜したという記事が刻まれている。バタンハリ川は、下流にある港ジャンビとミナンカバウ高地を結ぶ重要な交易路であってマラッカ海峡の海上交易の安定化に欠かせない拠点であった。なお、このときの仏像は今も現存している。また1284年にも、クルタナガラはバリに遠征軍を送って、バリの女王を捕虜として連れ帰っている。 クルタナガラの勢力は、『デーシャワルナナ』によるとスンダ(ジャワ西部)、パハン(マレー半島の一部)、バクラプラ(ボルネオ島南部のタンジュンブラの別名)、マドゥラ島、ムラユ、グルン(ゴロン島を含むパンダ海周辺の群島の総称)に及んだという。また、クルタナガラは、チャンパの王ジャヤシンガワルマン3世と友好関係を結んだ。おそらくジャヤシンガワルマン3世の王妃がクルタナガラの姉妹のひとりであったことによると思われる。 さて、クルタナガラの治世に、1280年以来、クビライの使者が冊封を受けて朝貢するよう数度にわたって訪れるようになる。クルタナガラは、元の宗主権を認めるのを潔しとせず、1289年に正使として来朝した孟棋の顔に刺青をして送り返した。そのためクビライは激怒し、同年12月に、討伐軍として2万の兵を500艘の船に乗せ、泉州から出発させた。 ところが、その間、シンガサリ国内では劇的な政変が起こっていた。ラージャサ王以来、旧クディリ領には、代々領主が任命されていたが、1292年、3代目の領主ジャヤカトワンが反乱を起こしたのである。ジャヤカトワンはクディリ王家の末裔と考えられ、彼自身もそれを意識して、先祖の仇を討ちたいと考えていたふしがある。ジャヤカトワンは、クルタナガラの精鋭は、「パマラユ」の遠征のために出かけていて本国が空同然であることを知っていた。そのため、自軍を北方の進路をとる陽動部隊と南方の進路をとる本隊との二手に分け、北方部隊には、通過する道路や町々を破壊させたり、焼き払ったり、略奪したりを繰り返させた。そのため、クルタナガラとシンガサリの高官たちは、クディリ軍が北方からのみ攻めてくることと思い込んで、女婿のラデン・ヴィジャヤに北方クディリ軍を迎撃させた。そして自らは、高官や僧侶たちとタントラ式の宗教儀礼にふけって飲食し酔っ払っている状態であった。そのため、クディリ軍本隊は、一挙に首都シンガサリを突いて、王や高官たちを容易に皆殺しにして、シンガサリ王国は滅亡した。 クルタナガラは、『パララトン』や『ナガラクルターガマ』によると「シヴァブッダロカとして死んだ」と記され、東部ジャワのパンダアン近くにあるチャンディ・ジャウイでシヴァ神やブッダとして崇拝されている。またチャンディ・シンガサリではバイラワ神として祀られている。

ところで、孤立したラデン・ヴィジャヤは、クディリに一旦降伏した。そこへまもなく元の討伐軍がやってきたので、これを契機に、元軍に、倒すべきはジャヤカトワンであると説得してクディリ軍を攻撃させた。元軍は激戦の末、クディリ軍を破った。戦闘によって疲労した元軍を今度はラデン・ヴィジャヤ軍が攻撃を開始した。目的を達成した安心感で本国へ帰りたいという意識しか持てない元軍は、ろくに抵抗もせず船に乗り込んで帰国していった。1294年、ラデン・ヴィジャヤが即位して、クルタラジャサ・ジャヤワルダナの尊称を持った。これがマジャパヒト王国の始まりである。







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