シリフケ 歴史

シリフケ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 22:44 UTC 版)

歴史

古代

カルカドヌス川(Calycadnus、現在のギョクス川)の河口に近いセレウキアは、セレウコス1世によって紀元前3世紀初頭に築かれ、数あるセレウコスの名を冠する町のひとつとなった。この地には更に古くからオルバ(Olba)やヒュリア(Hyria)と呼ばれる都市があり、セレウコスは単にそれらの町を統合して自分の名前をつけただけの可能性もある。町は拡大して、近くの集落ホルミ(Holmi、現代のタシュジュ Taşucu)を吸収した。ホルミはかつてイオニアの植民地として築かれた町であったが、海岸に面していたことから略奪者・海賊の攻撃にさらされ続けていた[1]。川に沿って内陸側に作られたセレウキアは海賊の襲撃に強く、より安全であったため、キリキア(後にイサウリア)の一角を占める港として商業的に発展し、タルススと競合するまでになった。

キリキアはローマ帝国の領土となり、セレウキアには2世紀にユーピテル神殿が建造されて宗教的拠点となった。また、哲学文学の学問所があり、逍遙学派のアテナエウス(Athenaeus)やクセナルクス(Xenarchus)が生まれた[2]。紀元後77年にオクタヴィウス・メモル(L.Octavius Memor)によって石橋が建造された。紀元後300年ごろ、イサウリアが設置され、その州都となった。

キリスト教

325年、359年、410年に、初期キリスト教の主教らによるセレウキア教会会議(Council of Seleucia)が開かれた。セレウキアは、パウロによって改宗した聖人テクラThecla of Iconium)が死去した地であり[3]、その墓はキリスト教徒たちに崇められ、5世紀の皇帝ゼノンをはじめとし、何度か修復が繰り返された。今日その遺構と聖域はメリアムリク(Meriamlik)と呼ばれている[4]。5世紀にはセレウキアに住む帝国の属州総督は、Legio II IsauraLegio III Isauraの2つのローマ軍団を抱えていた。この頃から後にかけての、キリスト教徒のネクロポリスが町の西にあり、多くのキリスト教徒の兵士の遺骨が納められている。アンティオキアNotitia Episcopatuumによると、6世紀のセレウキア府主教の下には、24の補佐主教がいた[5]

705年、セレウキアはイスラム教徒アラブ人の兵士に占領され、ビザンティン帝国により奪還された。732年、イサウリアのほぼ全ての教区がコンスタンディヌーポリ総主教庁の下に組み込まれ、それ以降、地域はパンピュリアの名で帝国のNotitiaeに記されるようになった。

レオーン6世(ca. 900)のNotitiaeでは、セレウキアには22人の補佐主教がおり[6]コンスタンティノス7世(ca. 940)のものでは23人がいるとされた[7]。968年にはアンティオキアは再びビザンティン帝国の支配下となり、イサウリア属州と共に、セレウキアはアンティオキア総主教区(Patriarchate of Antioch)の一部となった[8]

この教区に属する府主教の中には、325年に第1ニカイア公会議に出席したアガペトゥス(Agapetus)、359年のセレウキア教会会議に出席したネオナス(Neonas)、381年にコンスタンティノポリス公会議に出席したシュンポシウス(Symposius)、431年にエフェソス公会議に出席したデクシアヌス(Dexianus)、エフェソス強盗会議カルケドン公会議では野心的な牽引役を担ったバシル(Basil)、553年に第2コンスタンティノポリス公会議に出席したテオドロス(Theodore)、692年に第3コンスタンティノポリス公会議やトルッロ教会会議(Council in Trullo)に出席したマクロビウス(Macrobius)などがいた。

セレウキアにはその後もカトリック教会の名目上の教区(titular see)が設定されているが、1971年の主教の死去後は空位となっている[9]

オスマン帝国時代以降

11世紀、町はセルジューク朝に抵抗の末に征服され、1137年にはキリキア・アルメニア王国のレヴォン1世(Leon)によって包囲された。アルメニアとビザンティン、十字軍トルコ人による争いが続いたこの間に、町を見下ろす高台に要塞が築かれた。1190年6月10日、第3回十字軍のさなかにあった神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世は、カリュカドネス川を超えるのに失敗して落命した。

13世紀、セレウキアは聖ヨハネ騎士団の支配下となったが、13世紀後半にはトルコ人のカラマノール侯国(Karamanoğlu)の手に落ち、1471年にゲディク・アフメト・パシャ(Gedik Ahmet Pasha)将軍の指揮の下、オスマン帝国の占領下となった。

トルコ共和国成立後、1930年までシリフケはトルコ共和国のイチェル県の県都であったが、この年の総選挙で野党の自由共和党(Liberal Republican Party)に票が集まったことへの報復としてメルスィンの一部に組み込まれた。旧イチェル県と旧メルスィン県は統合されてイチェル県となり、メルスィンが県都とされた。2002年にイチェル県はメルスィン県へと改称された。


  1. ^ Stephanus of Byzantium; Strabo, XIV, 670
  2. ^ Classical Gazetteer, page 312
  3. ^ Acta Pauli et Theclae, an apocryphal work of the second century
  4. ^ Denkschriften der k. Akadem. der Wissenschaft. philos.-histor. Klasse, Vienna, XLIV, 6, 105-08
  5. ^ Echoes d'Orient, X, 145
  6. ^ Heinrich Gelzer, Ungedruckte . . . Texte der Notitiae episcopatuum, 557.
  7. ^ Georgii Cyprii descriptio orbis romani, ed. Gelzer, 76
  8. ^ Gelzer, op. cit., 573
  9. ^ Seleucia in Isauria (Titular See) [Catholic-Hierarchy]


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