サンダカン死の行進 戦犯裁判

サンダカン死の行進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 09:51 UTC 版)

戦犯裁判

尋問される日本の憲兵(左手前)

オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所側将兵には下記のような極刑が科せられた。また、殺害を実行した台湾人監視員達には、懲役刑が科せられた。

  • 星島進大尉  絞首刑(死刑)
  • 山本正一大尉 絞首刑(死刑)
  • 阿部一雄中尉 死刑
  • 高桑卓男大尉 絞首刑(死刑)
  • 渡辺源三中尉 銃殺刑(死刑)
  • 室住久雄曹長 終身刑

サンダカン捕虜収容所を統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部に指令を出した第三七軍司令部に対しては、馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回の捕虜移動を計画した山脇正隆中将(前軍司令官)はこの件に関しては一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体の最高責任者であり、関係者の中では比較的人道的であった菅辰次大佐は9月16日に自殺していた為、訴追される事はなかった。

なお、これら罪状の立証について、殆ど審理は行われておらず、刑の根拠には疑念を抱かざるを得ないとする見解もある[1]

分析・研究

捕虜虐待や処刑が実際にあったのか否かは不明であるとする見解も存在する。ジュネーブ条約からしても弱っている捕虜に過酷な移動をさせたことに関しては日本軍に責任はあるが、第25連隊第2大隊の関係者の刊行物には、護送される捕虜と日本兵の間に食料等の不公平や虐待等はなかったとの証言がなされている。またラバウル豪軍総司令部軍法会議の裁判において生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している[1]

反響

現在、サンダカンには1995年から戦争記念公園(Sandakan Memorial Park)がある。追悼記念碑、追悼パビリオンも建てられており、捕虜や地元住民の遺族による慰霊祭が毎年続けられている。[2][3]

オーストラリアで田中利幸による『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)の英訳が1996年にアメリカで刊行されてから、このサンダカン収容所事件や、インドネシアのバンカ島でのオーストラリア軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件、人肉食事件などが米豪で知られるようになった[4]

女流作家のアグネス・キースが小説『Three Came Home』において、行進の中で死に至る前に捕虜は日本兵に切り裂かれ、墓場に押し込まれていった、などという物語を書き、それがハリウッドで映画化までされたこともあって、これにより欧米社会に「サンダカン死の行進」における日本兵の残虐的なイメージ付けがなされていったとも言われている[1]

2014年7月8日、安倍晋三首相はオーストラリア議会における演説の中で「日本国と、日本国民を代表し、心中からなる、哀悼の誠を捧げます」と述べた。

2023年7月、地元マレーシアのほか、オーストラリア、イギリス、日本など、ボルネオ島での戦没者の遺族・関係者による合同慰霊祭が、現地で開催された。1945年の「死の行進」以来初めて、日本側遺族の慰霊祭への参加が実現した[5]








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