ケベックの戦い (1775年) モントゴメリー隊の到着

ケベックの戦い (1775年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 22:48 UTC 版)

モントゴメリー隊の到着

モントゴメリー隊とアーノルド隊の侵入ルート

12月1日、モントゴメリー隊がポワント・オ・トランブルに到着した。その部隊は、ニューヨーク第1、第2、第3連隊の300名とジョン・ラムが起ち上げた砲兵小隊[25]、ジェイムズ・リビングストンが徴兵した第1カナダ連隊約200名、および徴兵期限が切れたために解隊した連隊の残りを集めたジェイコブ・ブラウンの部隊160名[26][27]から構成されていた。これに加えて数日後には、モントゴメリーがモントリオールに残していたデイビッド・ウースター少将が派遣した数個小隊が加わった[25]。モントゴメリー隊が運んできた大砲は4門のカノン砲と6門の迫撃砲であり、またアーノルド隊のために冬の衣服などの物資も運んできた。これらの物資はモントリオールを占領した時に逃げ出したイギリスの船舶から奪ったものだった。大陸軍はケベック市に向かい、12月6日には市を包囲した[26]。モントゴメリーはある女性を使者に選んでカールトンに市の降伏を要求する私文書を送った。カールトンはこの要求を拒み、文書は読まずに燃やした。モントゴメリーは数日後に同じ事を試みたが、結果は同じだった[26]。包囲する側は主に市内の住民に伝言を送り続け、市の状態は絶望的であること、アメリカ側を支援するために立ち上がればその状態が良くなると訴えた[28]

ケベック市周辺の行動地点を示す1777年のフランスの地図

12月10日、大陸軍は市の壁から700ヤード (630 m) にその最大の砲台を据えた。大地が凍っていたために大砲のための溝を掘ることができず、雪の固まりで掩蔽用の壁を造った[26]。この砲台は市内に向けた砲撃に使われたが、それが与えた効果はあまりなかった。凍った地面では塹壕を掘ることもできず、また市の防御を破壊できるような道具も無かったので、モントゴメリーは大変難しい状況にあることを認識した。アーノルド隊の兵士はその年の終わりには徴兵期限が切れることになっており、植民地から弾薬が来る予定も無かった。さらに春にはイギリスの援軍が到着することが予測され、前に進むか退くかしかないことを意味していた。モントゴメリーは市の壁を気付かれずによじ登るとすれば、夜の風雪に紛れていくしかケベック市を占領するチャンスは無いと考えた[29]

モントゴメリーが市への攻撃作戦を立てている時にトロワリヴィエール近くに住むフランス人クリストフ・ペリシエが会いに来た。ペリシエはサンモーリス鉄工所を運営する政治的にアメリカ側を支持する者だった[30]。ペリシエとモントゴメリーは植民地の会議を開いて、大陸会議に代表を送る案を検討した。ペリシエはこのことについて、住民がその安全を確保されるまで自由に行動できるとは考えないであろうから、ケベック市を占領した後に行うことを奨めた[31]。包囲戦のためにペリシエの鉄工所が軍需品(銃弾や砲弾など)を提供することでは合意した。ペリシエは大陸軍が撤退した1776年5月まで支援を続け、その後に逃亡して最終的にはフランスに戻った[32]

12月27日の夜に暴風雪があって、モントゴメリーの部隊に攻撃への備えを促すことになった。しかし、この嵐は間もなく止み、モントゴメリーは攻撃の中止を命じた。その夜、ロードアイランド出身の軍曹が1人脱走して、攻撃作戦の詳細をイギリス軍に伝えた。モントゴメリーは新しい作戦を立て直した。まずジェイコブ・ブラウンとジェイムズ・リビングストンが率いる2つの部隊がケベック市西壁に陽動攻撃を掛ける[33]。一方残りの部隊は2つに分かれてケベック市のローワータウンに攻撃を仕掛ける。1隊はアーノルドが率いローワータウンの北端で防御線を潰す。もう1隊はモントゴメリーが率いて市の南、セントローレンス川沿いに進軍するというものだった。2つの部隊はローワータウンで落ち合い、共同で市の壁によじ登ってアッパータウンを襲撃することにされた。この新しい作戦は上級士官にのみ伝えられた[20]


  1. ^ Smith (1907), vol 2, p. 86 lists "less than 200" for Livingston's 1st Canadian Regiment, and 160 for Brown. Griffin (1907), p. 114 says that Livingston brought 300 militia. Nelson (2006), p. 133 counts Arnold's troops at "550 effectives"; Smith (1907), vol 2, p. 12 counts Arnold's troops at 675.
  2. ^ Smith (1907), vol 2, p. 98. On p. 94, Carleton reports to Dartmouth on November 20 that 1,186 are ready. This number is raised by Smith to 1,800 due to increased militia enrollment after that date.
  3. ^ a b c Smith (1907), vol 2, p. 581
  4. ^ a b c Gabriel (2002) p. 170
  5. ^ Lanctot (1967), pp. 44–45
  6. ^ Lanctot (1967), pp. 47–49,63
  7. ^ Lanctot (1967), p. 97
  8. ^ Smith (1907), vol 1, p. 326
  9. ^ Stanley (1973), pp. 37–80
  10. ^ Black (2009), pp. 52–53
  11. ^ Stanley (1973), pp. 21–36
  12. ^ a b Smith (1907) vol 2, pp. 10–12
  13. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 14–15
  14. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 9–10
  15. ^ Smith (1907) vol 2, p. 16
  16. ^ Smith (1907) vol 2, p. 21
  17. ^ Smith (1907) vol 1, pp. 487–490
  18. ^ Smith (1907) vol 2, p. 95
  19. ^ Shelton (1996), p. 130
  20. ^ a b c Wood (2003), p. 49
  21. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 97–98
  22. ^ Nelson (2006), pp. 76–132
  23. ^ Wood (2003), p. 44
  24. ^ Wood (2003), p. 46
  25. ^ a b Gabriel, p. 143
  26. ^ a b c d Wood (2003), p. 47
  27. ^ Smith (1907), vol 2, p. 86
  28. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 100–101
  29. ^ Wood (2003), p. 48
  30. ^ Fortier
  31. ^ Gabriel (2002), pp. 185–186
  32. ^ Royal Society of Canada (1887), pp. 85–86
  33. ^ United States Continental Congress (1907), p. 82
  34. ^ Gabriel (2002), p. 163
  35. ^ Wood (2003), p. 50
  36. ^ Gabriel (2002), p. 167
  37. ^ Lanctot (1967), p. 106
  38. ^ Smith (1907), vol 2, p. 130
  39. ^ Wood (2003), p. 51
  40. ^ Smith (1907), vol 2, p. 145
  41. ^ Gabriel (2002), p. 164
  42. ^ Smith (1907), vol 2, p. 582
  43. ^ Sutherland
  44. ^ Stanley (1973), p. 86
  45. ^ a b Lacoursière (1995), p. 433
  46. ^ Morrissey (2003), p. 25
  47. ^ Lanctot (1967), p. 126
  48. ^ Lanctot (1967), pp. 136–142
  49. ^ Smith (1907), vol 2, pp. 248–249
  50. ^ Lanctot (1967), p. 130
  51. ^ Lanctot (1967), pp. 131–132
  52. ^ Fraser (1907), p. 100. Letter from Carleton to Germain dated May 14, 1776
  53. ^ Lanctot (1967), pp. 141–146
  54. ^ Lanctot (1967), pp. 162–163
  55. ^ Lanctot (1967), p. 151
  56. ^ Lacoursière (1995), p. 429
  57. ^ Nelson (2006), p. 212
  58. ^ Stanley (1973), pp. 108,125,129,145
  59. ^ Lanctot (1967), pp. 31,144,154,155
  60. ^ Lanctot (1967), pp. 164–165





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