ケベックの戦い (1775年) 戦闘

ケベックの戦い (1775年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 22:48 UTC 版)

戦闘

モントゴメリー隊の攻撃

「ケベックへの攻撃におけるモントゴメリー将軍の戦死」、ジョン・トランブルによる1786年の絵画

12月30日に嵐が起こり、モントゴメリーは再度攻撃命令を出した。その夜、ブラウンとリビングストンは民兵中隊を率いて割り当てられた場所に向かった。ブラウンはケイプダイアモンド稜堡の側、リビングストンはセントジョンズ門の外だった。午前4時から5時の間にブラウン隊が所定の場所に到着したとき、他の部隊に信号を送るための火を焚かせ、その部隊とリビングストン隊がそのぞれの標的に対して発砲を始めた[34]。モントゴメリーとアーノルドはその炎を見て、ローワータウンへの進軍を始めた[20]

モントゴメリーはその部隊を外郭防御物に向かう急勾配で雪が積もった道に進ませた。風雪はブリザードに変わったので、進軍は容易ではなかった。モントゴメリー隊は遂に外郭防御物の柵に辿り着き、大工達からなる前衛隊が鋸で壁に穴を開けた。モントゴメリー自身が2つめの柵を切り倒すのを助け、50名の兵士を率いて2階建ての建物に向かう道を進んだ。この建物は市の防御物の一部であり、実際にはマスケット銃と大砲で武装した15名のケベック民兵が入るシェルターになっていた。この守備隊が至近距離で発砲し、ぶどう弾の破裂によって頭を射抜かれたモントゴメリーが即死した。生き残った前衛隊の数名が柵の所まで逃げ戻った。アーロン・バーなど数名だけが無傷で逃げ延びた[35]。モントゴメリー隊の士官達の多くがこの攻撃で負傷した。数少ない無傷の将校の一人が残存部隊をアブラハム平原まで誘導し、モントゴメリーの死体は後に残された[36]

アーノルド隊の攻撃

モントゴメリー隊が前進している時に、アーノルドはその主力をローワータウンの北端、ソルト・オ・マテローにあるバリケードに向かって進ませた[37]。部隊は外側の門を抜けたが、イギリス軍の砲台の幾つかには発見されないでいた。しかし、前衛隊がパレス門周辺に進むと、頭上にある市の防壁から激しい銃火が打ち下ろされた[38]。防壁が高くてこの銃火に反撃することは不可能であったので、アーノルドは兵士達に走っての前進を命じた。部隊は狭い通りを進み、バリケードに近付いたときに再び激しい銃火に曝された。アーノルドはそのバリケードを占領するために兵士達を編成しているときに踝に銃弾を受け、その部隊の指揮をダニエル・モーガンに引き継いだ後に、後方に搬送された[39]。モーガンの指揮下に入った部隊はバリケードを占領したが、通りが狭く曲がりくねっているためにそれ以上の前進は難しかった。さらに雪のために火薬が湿っておりマスケット銃を使えなかった。モーガン隊は火薬を乾かして再武装するために幾つかの建物に潜り込んだが、さらに増した銃火の下に曝されることになった。カールトンは、北側の門への攻撃が陽動攻撃であることを理解し、その部隊をローワータウンに集中させた。パレス門から出撃した500名のイギリス軍が最初のバリケードを取り返したことで、モーガン隊は市内に閉じ込められた[40]。モーガン隊は撤退する道も無く、激しい銃火に曝されたままだったので降伏した。戦闘は午前10時には終わった[41]

ジェイムズ・リビングストン隊が陽動攻撃を行ったセントジョンズ門

これは大陸軍が味わった初の敗北だった。カールトンはアメリカ兵の30名が戦死、431名を捕虜に取ったと報告した。これにはアーノルド隊の約3分の2を含んでいた。また逃亡しようとした「多くの者が川で死んだ」とも記していた[3]。アラン・マクリーンは翌年5月の雪解け時に20名の遺体を回収したと報告した。アーノルドは約400名が不明または捕虜になったと報告しており、大陸会議に提出した公式報告書では60名が戦死、300名が捕虜とされていた[3]。イギリス軍の損失は比較的少なかった。ウィリアム・ハウ将軍に宛てたカールトンの最初の報告書では死傷者が5名のみとされていたが、別の目撃証言ではその数が50名になっていた[42]。カールトンの公式報告書では5名が戦死、14名が負傷となっていた[4]

モントゴメリー将軍の遺体は1776年の元日にイギリス軍によって回収され、クラマエ副知事の手によって1月4日に簡単な軍葬の礼が行われた。遺骸は1818年にニューヨークに戻された[43]


  1. ^ Smith (1907), vol 2, p. 86 lists "less than 200" for Livingston's 1st Canadian Regiment, and 160 for Brown. Griffin (1907), p. 114 says that Livingston brought 300 militia. Nelson (2006), p. 133 counts Arnold's troops at "550 effectives"; Smith (1907), vol 2, p. 12 counts Arnold's troops at 675.
  2. ^ Smith (1907), vol 2, p. 98. On p. 94, Carleton reports to Dartmouth on November 20 that 1,186 are ready. This number is raised by Smith to 1,800 due to increased militia enrollment after that date.
  3. ^ a b c Smith (1907), vol 2, p. 581
  4. ^ a b c Gabriel (2002) p. 170
  5. ^ Lanctot (1967), pp. 44–45
  6. ^ Lanctot (1967), pp. 47–49,63
  7. ^ Lanctot (1967), p. 97
  8. ^ Smith (1907), vol 1, p. 326
  9. ^ Stanley (1973), pp. 37–80
  10. ^ Black (2009), pp. 52–53
  11. ^ Stanley (1973), pp. 21–36
  12. ^ a b Smith (1907) vol 2, pp. 10–12
  13. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 14–15
  14. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 9–10
  15. ^ Smith (1907) vol 2, p. 16
  16. ^ Smith (1907) vol 2, p. 21
  17. ^ Smith (1907) vol 1, pp. 487–490
  18. ^ Smith (1907) vol 2, p. 95
  19. ^ Shelton (1996), p. 130
  20. ^ a b c Wood (2003), p. 49
  21. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 97–98
  22. ^ Nelson (2006), pp. 76–132
  23. ^ Wood (2003), p. 44
  24. ^ Wood (2003), p. 46
  25. ^ a b Gabriel, p. 143
  26. ^ a b c d Wood (2003), p. 47
  27. ^ Smith (1907), vol 2, p. 86
  28. ^ Smith (1907) vol 2, pp. 100–101
  29. ^ Wood (2003), p. 48
  30. ^ Fortier
  31. ^ Gabriel (2002), pp. 185–186
  32. ^ Royal Society of Canada (1887), pp. 85–86
  33. ^ United States Continental Congress (1907), p. 82
  34. ^ Gabriel (2002), p. 163
  35. ^ Wood (2003), p. 50
  36. ^ Gabriel (2002), p. 167
  37. ^ Lanctot (1967), p. 106
  38. ^ Smith (1907), vol 2, p. 130
  39. ^ Wood (2003), p. 51
  40. ^ Smith (1907), vol 2, p. 145
  41. ^ Gabriel (2002), p. 164
  42. ^ Smith (1907), vol 2, p. 582
  43. ^ Sutherland
  44. ^ Stanley (1973), p. 86
  45. ^ a b Lacoursière (1995), p. 433
  46. ^ Morrissey (2003), p. 25
  47. ^ Lanctot (1967), p. 126
  48. ^ Lanctot (1967), pp. 136–142
  49. ^ Smith (1907), vol 2, pp. 248–249
  50. ^ Lanctot (1967), p. 130
  51. ^ Lanctot (1967), pp. 131–132
  52. ^ Fraser (1907), p. 100. Letter from Carleton to Germain dated May 14, 1776
  53. ^ Lanctot (1967), pp. 141–146
  54. ^ Lanctot (1967), pp. 162–163
  55. ^ Lanctot (1967), p. 151
  56. ^ Lacoursière (1995), p. 429
  57. ^ Nelson (2006), p. 212
  58. ^ Stanley (1973), pp. 108,125,129,145
  59. ^ Lanctot (1967), pp. 31,144,154,155
  60. ^ Lanctot (1967), pp. 164–165





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ケベックの戦い (1775年)」の関連用語

ケベックの戦い (1775年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ケベックの戦い (1775年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのケベックの戦い (1775年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS