グロトンハイツの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/31 09:53 UTC 版)
グロトンハイツの戦い | |
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トランブル砦、セス・イーストマン画。ただし1870年代の絵であり、1781年以後大々的に改装されている。 | |
戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1781年9月6日 | |
場所:コネチカット州、ニューロンドンとグロトン | |
結果:イギリス軍の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍 |
指導者・指揮官 | |
ウィリアム・レッドヤード † ウィリアム・ラザム |
ベネディクト・アーノルド エドマンド・エア ジョン・ベイズリー |
戦力 | |
ニューロンドンは不明。 グリスウォルド砦の民兵120ないし160名[1] |
正規兵1,700名(参戦は800名)[2] |
損害 | |
戦死85名 負傷60名(多くは致命傷)[3] |
戦死48名 負傷145名[3] |
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イギリス軍の北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントン将軍は、アメリカ軍ジョージ・ワシントン将軍の軍がバージニア邦にいるイギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に向って行軍するのを牽制するために、ベネディクト・アーノルドに命じてコネチカットの港町ニューロンドンを襲撃させた。この襲撃そのものは成功したが、イギリス軍がニューロンドンとはテムズ川向かいのグロトンにあるグリスウォルド砦占領に向ったのに対し、コネチカットの民兵隊は頑強に抵抗した。攻撃側イギリス軍の指揮官数人が戦死し、守備側も砦が陥ちたときに戦死、負傷あるいは捕虜になった。イギリス軍の被害が大きかったので、そのことでアーノルドは上官から批判された。
この戦闘はアメリカ合衆国北部では最後の主要な戦闘となり、南部のヨークタウンでイギリス軍が降伏しアメリカ側の大勝利になったのはこの6週間後だった。
- ^ Caulkins, p. 558
- ^ a b Caulkins, pp. 546–550
- ^ a b Ward, p. 628
- ^ Burgess, p. 3
- ^ Caulkins, p. 414
- ^ Caulkins, p. 545
- ^ Ward, p. 627
- ^ a b Caulkins, p. 546
- ^ a b Powell, p. 44
- ^ Allyn, p. 12
- ^ Allyn, p. 13
- ^ Allyn, p. 14
- ^ Carrington, p. 626
- ^ Carrington, p. 625
- ^ Allyn, p. 15
- ^ Rathbun, p. 26
- ^ Allyn, p. 16
- ^ Caulkins, pp. 546-547
- ^ Caulkins, pp. 553–554
- ^ Caulkins, p. 552
- ^ Caulkins, p. 555
- ^ Allyn, p. 91
- ^ Caulkins, p. 557
- ^ a b Caulkins, p. 559
- ^ Allyn, p. 29
- ^ a b Caulkins, p. 560
- ^ Allyn, p. 102
- ^ a b c Caulkins, p. 561
- ^ Rathbun, p. 30
- ^ Rathbun, p. 28
- ^ Allyn, p. 52
- ^ Randall, p. 588
- ^ Allyn, p. 171
- ^ Allyn, p. 169
- ^ Allyn, p. 170
- ^ Girod, p. 66
- ^ a b Randall, p. 589
- ^ Caulkins, p. 566
- ^ Allyn, pp. 266–268
- ^ a b Allyn, p. 53
- ^ Allyn, p. 105
- ^ Brandt, pp. 250–252
- ^ Randall, p. 590
- ^ Connecticut DEP: Fort Trumbull State Park
- ^ Connecticut DEP: Fort Griswold Battlefield State Park
- ^ Friends of Fort Griswold – Monument and Museum
- ^ NRHP listing numbers: 72001333 (Fort Trumbull), 70000694 (Fort Griswold), NPS: Searchable NRHP database, National Park Service 2010年10月10日閲覧。
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