クルチ・アリ
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レパントの海戦
1571年8月7日、レパントの海戦において、クルチ・アリ・パシャはメジンザード・アリ・パシャ艦隊の左翼を率いた。彼は乱戦の最中も自隊をひとかたまりに留め、対峙した敵指揮官ジャナンドレア・ドーリアの裏をかいてマルタ騎士団艦隊の旗艦を拿捕し、その将帥旗を奪取した。[1]オスマン側の敗色濃厚となると、彼は自船を離脱させ、オスマン艦隊の残存船(40隻ほどのガレー船とフスタ船)らを集めてイスタンブールへ向かった。到着時には87隻があったとされる。[1] 彼はマルタ騎士団の将帥旗をセリム2世へ献上し、これによりKılıç ("剣")の称号を与えられた。そして1571年8月29日、彼はカプタン・パシャ (大提督)・「多島海のイヤーレット(Eyālet-i Cezāyir-i Baḥr-i Sefīd)」(エーゲ海一帯のベイレルベイ)に指名された。この時から彼はKılıç Ali Pashaの名で知られるようになる。[要出典]
カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)
当時の大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、生き残ったクルチらを抜擢して半年で大艦隊を再建させる。その命を受けたピヤル・パシャとクルチ・アリ・パシャは、直ちにオスマン海軍の再建を開始した。クルチ・アリ・パシャが特に重視したのは、ヴェネチアのガレアス船よりも重装型の船の建造数を増やすこと、ガレー船の砲兵をより重装にすること、そして乗船員に銃火器を装備させることであった。[1]1572年6月、カプタン・パシャとして、彼は250隻のガレー船と無数の小型船を伴い、レパントの海戦の報復のため出港した。[1]彼はペロポネソス半島の入り江に停泊しているキリスト教勢力の艦隊を発見したが、この艦隊は罠に掛かって包囲される事態を警戒していたため、敵を誘い出し波状攻撃によって打撃を与えるという彼の戦略は十分な成果を挙げられなかった。[1]
1573年、クルチ・アリ・パシャはイタリア沿岸への行軍を指揮した。[1]この時期の数年間で、アルジェの支配権はハフス朝のムハンマド4世に移っており、レパント海戦の勝者であるドン・フアン・デ・アウストリアによってチュニスがスペイン側へ奪還されていた。[1]1574年7月、クルチ・アリ・パシャは250隻のガレー船とシャガラザード・ユスフ・シナン・パシャ率いる大軍勢を伴いチュニスへ進攻 、1574年8月25日にラ・グレットの軍港を制圧、同年9月13日にはチュニス市街を占拠した。[3]この遠征の最中、1574年7月26日には、クルチ・アリ・パシャの軍勢はモロッコの海岸線沿い、スペイン本土のアンダルシア州を臨む地にオスマン軍の要塞を築いた。[4]
彼は1576年にはカラブリア州を奇襲し、また1578年にはアルジェでムハンマド4世を暗殺したイェニチェリの暴動を鎮圧した。[1]1584年には、クリミア半島への海上遠征を指揮した。[1]1585年には、アレクサンドリアを拠点とするオスマンエジプト艦隊がシリア・レバノンで叛乱を起こしたが、これも鎮圧した。[1]
クルチ・アリ・パシャは1587年6月21日、イスタンブールで没した。遺骸はクルチ・アリ・パシャモスクに埋葬された(1580年)。これはオスマン帝国最盛期を代表する建築家、ミマール・スィナンの設計によるものである。
遺産
- クルチ・アリ・パシャ・ジャーミィ
- イスタンブール所在。クルチ・アリ・パシャモスク(1580年建造)や浴場(1583年建造)等からなる建造物群。
- トルコ海軍のいくつかの軍艦・潜水艦は彼の名をとって名付けられた。
- クルチ級高速戦闘艇
- オルチ・レイース級潜水艦
- 出生地であるイタリア・カラブリア州Le Castellaの中央広場には、彼の像が建てられている。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag Corsari nel Mediterraneo: Uluç Ali Reis (Occhiali, Uluj Ali)
- ^ Bizimsahife.com: Battle of Djerba (1560)
- ^ Setton, Kenneth Meyer (1984). The Papacy and the Levant, 1204-1571: Vol.IV. Philadelphia
- ^ Tarih Sitesi: Kılıç Ali Paşa
- 1 クルチ・アリとは
- 2 クルチ・アリの概要
- 3 レパントの海戦
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