ギヤースッディーン・バルバン
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後継者対策
バルバンは長男で有能なムハンマドを溺愛していた。そのためムハンマドに自らの経験を基にした訓戒状を送るなどして後継者としての経験を積ませていた。だがムハンマドがモンゴルとの戦争で戦死したためバルバンはその心痛で病となり、結果的に後継者を欠くことになって王朝の滅亡までにつながった。ちなみに訓戒状の内容は贅沢にふけることの禁止、王の器量と野心、能力ある者を側近にすることなどを命じている[16]。
参考文献
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』123頁。
- ^ 奴隷や隊長に与えられた称号で、モンゴルのハーンとは異なる。F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』120頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』118頁
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』120頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』118頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』119頁。
- ^ バラニーは「あの2度の進軍から60年が過ぎたが、あれ以来、隊商路に略奪者が現れたことは1度もない」と語っている。F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』121頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』122頁。
- ^ バラニーは「バルバンは支配権を確立し、ライバルや敵対者らを一掃すると(略)王の天蓋を長男のムハンマドに与え、この長男を後継者にすることを表明した。さらに彼をシンド全域と辺境地帯の属領を統括する総督に任命した」と語っている。F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』122頁。
- ^ 『南アジア史』202頁。
- ^ a b 『南アジア史』203頁。
- ^ バラニーは「既にスルタンは80歳を越えていた。息子を奪われた痛手と懸命に戦いはしたが、その痛手は日を経るごとに明らかになった。昼間は、息子の死に何の影響も受けていないかのごとく宮中会議を開いたり、公務に専念したりしていたが、夜になると、悲嘆に暮れて泣き叫び、衣服を引き裂いて頭に埃をかぶった。(略)彼は次第に悲しみに沈みこむようになった」と語っている。F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』123頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』123頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』120頁・121頁。
- ^ バラニーによると重臣らはムハンマドと対立していたため、その息子とも対立することを危惧したという。F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』123頁。
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』121頁。
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