オリバー・キャンベル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 05:49 UTC 版)
|
||||
---|---|---|---|---|
オリバー・キャンベル
|
||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Oliver Samuel Campbell | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・ニューヨーク市ブルックリン | |||
生年月日 | 1871年2月25日 | |||
没年月日 | 1953年7月11日(82歳没) | |||
死没地 | カナダ・カンペルトン | |||
利き手 | 右 | |||
殿堂入り | 1955年 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全英 | 2回戦(1892) | |||
全米 | 優勝(1890-92) | |||
優勝回数 | 3(米3) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全英 | ベスト4(1892) | |||
全米 | 優勝(1888・91・92) | |||
優勝回数 | 3(米3) | |||
経歴
現在は全米オープンとして知られるテニス競技大会は、1881年から男子シングルスと男子ダブルスが始まった。最初期の時代は各部門が個別の名称を持ち、男子シングルスは「全米シングルス選手権」(U.S. National Singles Championship)、男子ダブルスは「全米男子ダブルス選手権」(U.S. National Men's Doubles Championship)という名前であった。オリバー・キャンベルは1886年に15歳5ヶ月で「全米シングルス選手権」に初参加したが、最初の時は1回戦でヘンリー・スローカム(1862年 - 1949年)に敗れている。この敗北をきっかけに、キャンベルは自分のテニス・スタイルを大幅に変え、サービス・アンド・ボレーを大幅に増やした。後年の回想で、彼は「引退する日まで、毎日ネット・ダッシュの練習をした」と語ったほどである。1888年に「全米男子ダブルス選手権」で、バレンティン・ホールとのペアで初優勝したが、1889年にダブルス2連覇を逃す。1890年の「全米シングルス選手権」で、キャンベルは4年前の1回戦で敗れたヘンリー・スローカムに 6-2, 4-6, 6-3, 6-1 で勝ち、「19歳6ヶ月9日」で初優勝を飾った。この記録は、100年間にわたり男子シングルスの最年少優勝記録であった。1891年と1892年には、キャンベルは男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得している。1892年に男子シングルス3連覇を達成した後、キャンベルは21歳の若さで競技テニスから引退した。
キャンベルは1892年、1度ウィンブルドン選手権に遠征したこともある。シングルスは2回戦でアーサー・ゴアに敗れたが、ダブルスでジョージ・ヒルヤード(ブランチ・ビングリーの夫)と組んで準決勝に進出した。キャンベルとヒルヤードは、準決勝でハリー・バーロウ&アーネスト・ルイス組に 3-6, 4-6, 2-6 で敗れた。
オリバー・キャンベルは1953年7月11日、カナダ・カンペルトンにて82歳で死去した。その翌年、1954年にジェームズ・バン・アレン(James Van Alen, 1902年 - 1991年)がアメリカ・ロードアイランド州ニューポート(最初の全米シングルス選手権開催地)に「国際テニス殿堂」を設立した。第1回の国際テニス殿堂入り式典は1955年に行われ、キャンベルは第1回全米選手権優勝者リチャード・シアーズ(1861年 - 1943年)、ヘンリー・スローカムなどと一緒に最初の殿堂入りを果たした。それから35年後、1990年の全米オープン男子シングルスでピート・サンプラスが「19歳28日」の最年少優勝記録を樹立し、キャンベルの記録を100年ぶりに更新した。
全米選手権の成績
- 男子シングルス:3勝(1890年-1892年)
- 1890年の優勝は、100年間大会最年少優勝記録であった。
- 男子ダブルス:3勝(1888年・1891年・1892年)
|
- 1 オリバー・キャンベルとは
- 2 オリバー・キャンベルの概要
- 3 参考文献
- オリバー・キャンベルのページへのリンク