オヤケアカハチの乱 オヤケアカハチの乱の概要

オヤケアカハチの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:48 UTC 版)

原因

琉球の正史[3]では、別名:赤蜂征伐と記録されており、攻撃の理由として2点を挙げている。曰く、「八重山は洪武年間より毎年かかさず朝貢国として貢物をしていたのに、それを2-3年断った。加えて臣民である宮古を攻めようとした。よってこちらから攻めた。」

そして諸史料は一致して、大平山(タイビンサン、宮古・八重山の両先島)の朝貢が断たれたのは、大浜のアカハチが謀叛したせいだと述べている。

当時の宮古は空広(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)という代々続く首領一族に統治されていた。忠導氏家譜正統に曰く、「宮古の民は争いを好んだ。空広は考えて、これは米粟が豊饒なためである。主国(琉球国中山)に賦税をお願いして朝貢しよう。こうして命令を請うて主国の役人に駐屯いただき、諸村に人頭税[4]を定めたところ、農業を怠らなくなった。このとき空広は八重山に航し、八重山の酋長を諭し、相共に附庸国の職分を守り、毎年かならず朝貢の員数を定め、主国に朝見し、臣民としての忠誠を尽くそうと述べた[5]。」この時、大浜のアカハチホンカワラは同意せず、かえって宮古島を襲おうとしたので、主国に訴えたとする。これは前述の琉球側が記録する「洪武年間より毎年朝貢していた」という記述と矛盾し、また誰を指して八重山の酋長と述べているのかは不明である。

しかしながら、7世祖父の根間大按司の代から宮古を統治していた首領である空広が唐突に「住民が好戦的」「豊か過ぎる故の怠慢」と嘆き、その解決策として何故か主権を放棄し、「主国への朝貢」を挙げ、さらに「八重山にも同様の朝貢を求める」など不自然な点が多く、これらは後年になって琉球国中山への忖度によって書き換えられた記述であると思われる。稲村賢敷は、「空広が諸村に税制を定め、中山に朝貢を始めた」という記述と、「球陽(141号)」に尚真王の事績として載る「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」を根拠として、オヤケヤカハチの乱を以って大平山(タイビンサン)が琉球に取り込まれたとしている。つまり朝貢国としての忠誠を示すために八重山諸村にも定租を課そうとしたことで[6]、アカハチを挑発した、と説明している。

また、八重山の諸史料では「アカハチホンカワラという二人[7][8]」とし、アカハチホンカワラは二人いたという点で一致している。さらに長榮姓家譜大宗は、「ホンカワラ及びアカハチという者二人[9]」と明言し、ホンカワラとアカハチは別人であるとの見解を示している。少なくとも宮古においては、カワラというのは人名として珍しくない[10]。空広の先祖には別名「祢間津のかわら[11]」と呼ばれた普佐盛豊見親がいる。ただし、この場合「カワラ」とは首領格の称号であることから、同じく「ホンカワラ」とは大酋長という意味であり「アカハチホンカワラ」とは二人の名称ではなく、アカハチ一人を指しているという意見もある[12]

また、これら八重山の諸史料は、アカハチに全島民が同心していたことも一致して記述されている。

開戦前

アカハチは急いで檄文を各所に発して、衆民を集めて曰く、「中山(第二尚氏)の大兵が、来たって我が境を侵さんとしている。汝ら、よく鋭気を奮い、速やかに出で迎戦せよ。もし、命令に違いて怠惰すれば、法に依りてただちに斬り、敢えて許さない[13]。」 前述のように、全島民はアカハチに同心し服従したが、次の5人は服従しなかった[14]。島の長者、石垣村の長田大主(ナータフーズ)、その弟2名、那礼当、那礼重利、川平村仲間丘の首領、仲間満慶山(ミツケーマ)、波照間住人明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)である。那礼当、那礼重利、満慶山、シシカトノは殺された。長田大主はあちこち逃げ隠れして度々危地を脱し、ようやく古見西表島)まで逃亡して洞窟の中に隠れた[15]

なお、仲間満慶山の子孫を称するのが現在の憲章姓一門である。その家譜は満慶山について「元祖の曽祖父は満慶山である」ということとしか述べていない[16]。1950年代に調査を行った稲村賢敷は「アカハチは満慶山をケーラ坂で殺し、さらに仲間丘住人の井戸であった仲間井を埋めた。しかし、うるか屋まやまとが代わりの井戸を発見し、人々は彼にちなんでこれをうるか井と名付けた。その後転訛して、今ふがー(保嘉井)と称しているのがその井戸である[17]」という現地の伝説を紹介している。また、1809年に憲章姓一門の者が作成した文書[18]では「アカハチ謀叛の際、アカハチと満慶山は、仲すみと申す所で寄合を持ったが、物別れに終わり、満慶山は帰る途中でアカハチが仕掛けた落とし穴に落ちて死んだ」とされている。

波照間のシシカトノに対し、アカハチは平得村の嵩茶、大浜村の黒勢等を遣わして慰諭させようとした。嵩茶等が到着したとき、シシカトノはたまたま海辺で魚釣りをしており、逃げ隠れできなかった。シシカトノは従わなかったので、嵩茶はこれを刺殺して海中に遺棄した[13]

先述の如く、アカハチは第一に中山(琉球)と我ら(大平山)との間には境がある、第二に琉球がそれを侵そうとしているとの認識を示しているが、琉球は一貫して、アカハチの行為は中山に対する「謀叛」「叛逆」であるとし、アカハチ攻撃の正当性を主張している。一方、高良倉吉は、アカハチが琉球の「侵」と定義する行為は、琉球側にとっては「地方統治の強化[19]」であるとの見解を示している。なお、高良は、逆に琉球が攻撃を受けた琉球征伐に関しては、「琉球側にとってはまぎれもなく侵入・侵寇・侵略の事件だった[20]」とダブルスタンダードな見解を述べている。


  1. ^ Shinzato, Keiji et al. Okinawa-ken no rekishi (History of Okinawa Prefecture). Tokyo: Yamakawa Publishing, 1996. p57.
  2. ^ 先島側の立場からは琉球(中山)王府と呼ばれる事が多い。また、(統一後の)琉球国王号は琉球国中山王である。
  3. ^ 主に「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」160号
  4. ^ 「忠導氏正統家譜」原文は「諸村令定毎丁賦数矣(諸村をして丁毎に賦数を定めしむなり)」人間毎に割り当てを定めた。ちなみに「丁賦」は人頭税の意味。
  5. ^ 「忠導氏正統家譜」「于時玄雅航于八重山嶋諭彼之島酉長曰相共守附庸之職分而定年々貢物之員数而朝見于琉球述欲竭臣子之忠誠之意矣」「竭」とは「尽」と同義。
  6. ^ 稲村「庶民史」pp.215
  7. ^ 「八重山島年来記」「大浜村赤蜂堀川原与申弐人之者変心を企・・・島中之者共押而身方江引入」
  8. ^ 「山陽姓大宗系図家譜」「当島大浜邑赤蜂堀川原二人之賊党対于王府企変心、四ヶ年年貢抑留、島民全部同心」山陽姓の元祖は宮良親雲上長光であるが、その先祖が長田大主の弟・那礼当であるとして、事績を記している
  9. ^ 「長榮姓家譜大宗」「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」長榮姓は長田大主を元祖とする氏族
  10. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.261以後、「童名がーらの起源と其の継承」と題する章節で、がーら(加和良、加阿良)の実用例が多数挙げられている。
  11. ^ 宮古島旧記による表記。「忠導氏家譜正統」では「根間角嘉良天大之大氏」。かわらもがーらも同じである。天大は天太の表記がより一般的で、当時の首領格の称号。根間大按司の息子、目黒盛豊見親の父。空広の6代前の先祖。
  12. ^ オヤケアカハチ”. www.zephyr.justhpbs.jp. 2019年10月19日閲覧。
  13. ^ a b 「球陽(161号)」
  14. ^ 「山陽姓家譜(1730年代に成立)」を根拠として、仲間満慶山も含めた。
  15. ^ 長田大主の行動は以下による。「球陽(160号)」「八重山島年来記」「長榮姓家譜大宗」「山陽姓家譜」
  16. ^ 大浜pp.81。「元祖・石垣親雲上英乗・童名石戸能。彼の父は、満慶山の長子、嘉平首里大屋子・童名佐嘉伊の長子、嘉平首里大屋子童名満慶山である」
  17. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.294
  18. ^ 大浜pp.83。仲間満慶山についての系図訂正の請願書。請願者は10名だが、その中に憲章姓大宗英乗家の者がいないことを、大浜は指摘している。作成年代については「巳十一月」としかなく、請願者の役職を調査した上で、大浜が推定している。この文書は満慶山から英乗までの4代を次のように記している。「元祖嘉平首里大屋子英極満慶山。二代嘉平首里大屋子英潔童名石戸能。三代嘉平首里大屋子英文童名真蒲戸。四代頭石垣親雲上英乗童名石戸能」これには三つの問題点がある。第一に、満慶山の肩書が何故か首里大屋子になっているが、これは乱以後に生まれた概念である。第二に、二代と三代の童名が、「大宗家譜」のものと全然異なる。第三に、元祖・二代・三代に、「大宗家譜」では書かれていない名乗がでっちあげられている。
  19. ^ 高良pp.19
  20. ^ 高良pp.234
  21. ^ 「忠導氏家譜」「弘治十三年庚申、大将を遣わし征伐之時、玄雅父子、官軍之指導を為す也」/「球陽」160号「・・・大小戦船四十六隻を撥し、其の仲宗根を以て導と為し、」
  22. ^ 大浜pp.54「銭姓家譜」抜粋による。銭姓一世。唐名銭原
  23. ^ 「球陽」159号
  24. ^ 人数は「球陽」159号による
  25. ^ 長田云々については正確な日は不明。「八重山年来記」他多数に載る。
  26. ^ 「蔡鐸本中山世譜」の現代語訳を著している原田禹雄は、この箇所を「首を出して」と訳しているが、これは完全な間違いである。原文では「首出」と書かれているので、「首」は「出」の目的語では有り得ない。「首」には「はじめて」と訓読する副詞としての用法がある。
  27. ^ 大里の考えは「球陽」160号に依る。
  28. ^ この一文は「球陽」160号に基づく。「赤蜂、首尾相応ずる能はず。官軍勢に乗じ、攻撃すること甚だ急なり」
  29. ^ 「即ち仲宗根豊見親を擢んでて宮古頭職と為し、亦真列金豊見親を陞せて始めて八重山頭職と為す。真列金、衿驕自恣にして人民を暴虐す。彼の島の人民、みな疏文を具し、豊見親を琉球に告訴す。即ち頭役を革め去り故郷に摘回す」
  30. ^ 「忠導氏正統家譜」
  31. ^ 「八重山島年来記」「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  32. ^ 全て「山陽姓家譜」による。シシカトノの子供については「球陽(161号)」がより詳しい。ミツケーマの子供については、佐嘉伊が嘉平首里大屋子になった事が家譜から確認できるが、他7人は不詳。
  33. ^ 「球陽」160号では真乙姥、古乙姥
  34. ^ 長田大主の母と同名
  35. ^ 「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  36. ^ 「球陽(160号)」


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