オヤケアカハチの乱 戦後処理

オヤケアカハチの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:48 UTC 版)

戦後処理

「球陽」162号によれば、琉球は初めて空広を宮古頭、二男マチリンガニ(真列金)を八重山頭に任命した。ただし「忠導氏正統家譜」「球陽」109号は、この時はマチリンガニの八重山守護奉命のみを認めている。この二者は、尚真王代の宮古頭云々は無視する一方、空広は尚円王に朝見した際に「宮古島主長」職を奉命したことを述べており、この職が一貫して継続しているとの見解を示している。「家譜」によれば、マチリンガニは4年勤めた後、三男チリマラ(知利真良)と代えられた。「球陽」162号は、マチリンガニは人民を虐待したので退官させたと述べている[29]。空広は八重山平治慶賀のために朝見した際、宝剣治金丸一振、宝珠一個を献上し、中山は簪一個と白絹衣一領を下賜した。また彼は漲水御嶽に「逆徒を追討できたら御嶽の周囲に石垣を新築します」との願をかけていたので、帰島のときに実行した[30]

長田大主は古見大首里大屋子に抜擢された。これは後に改称されて石垣八重山頭職となった。これが八重山の頭の始まりとなった[31]。ここでいう「八重山頭職」の始めと、先のマチリンガニの「八重山頭」奉職との整合性は不明である。当時の「八重山頭」にどこまで実態があったのかも不明である。

那礼当の幼子、保利久思は美良底首里大屋子となった。仲間満慶山の男子は、8人とも首里大屋子になった。シシカトノの男子三人は与人になった。女子三人は女頭職になった[32]

長田大主には二妹あり、古市、真市[33]といったが、そのうち古市はアカハチの妻だったので夫と共に殺害された。他方、真市はイラビンガニという神様の神人に任命された。姪の宇那利[34]は大阿母職に任命された。姪の方が高位であるが、これは真市が譲ったためである[35]

真市が俸米を授かった経緯は以下の通り。ある日、官軍のところに真市がやって来て「永良比金の神の託宣があったのですが、今船に乗れば早く那覇に到るでしょう」などと言った。しかし官軍は次のように答えた。「その神託はまだ深くは信じられない。兵船が一斉に国に着けば褒賞するが、託宣と違って前後して国に至ることが有れば、重く罪して恕さない」真市は答えた。「蒼天は定めがありません。風波は測り難いです」真市は美崎山に入り、日夜断食して祈願した。そうこうするうち、船は神様のおかげで一斉に国に到着した。王は真市を抜擢して、大阿母にしようとしたが、真市は姪の遠那理に譲った。そこで王は、真市は永良比金の神人にした。大阿母には俸米一石五斗を賜い、永良比金には俸米一石を賜うた[36]

このように当時の中山兵は神託をあまり信じていなかった。神託全般を信じなかったのか、真市の神託だから信じなかったのかは不明である。そもそも神託を受けたと称する当人からして、神託の実現可能性に対する不信の念を表明している。しかしこのような不信心にもかかわらず、イラビンガニは蒼天を定められ、神妙な御霊威を顕されたことが述べられている。


  1. ^ Shinzato, Keiji et al. Okinawa-ken no rekishi (History of Okinawa Prefecture). Tokyo: Yamakawa Publishing, 1996. p57.
  2. ^ 先島側の立場からは琉球(中山)王府と呼ばれる事が多い。また、(統一後の)琉球国王号は琉球国中山王である。
  3. ^ 主に「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」160号
  4. ^ 「忠導氏正統家譜」原文は「諸村令定毎丁賦数矣(諸村をして丁毎に賦数を定めしむなり)」人間毎に割り当てを定めた。ちなみに「丁賦」は人頭税の意味。
  5. ^ 「忠導氏正統家譜」「于時玄雅航于八重山嶋諭彼之島酉長曰相共守附庸之職分而定年々貢物之員数而朝見于琉球述欲竭臣子之忠誠之意矣」「竭」とは「尽」と同義。
  6. ^ 稲村「庶民史」pp.215
  7. ^ 「八重山島年来記」「大浜村赤蜂堀川原与申弐人之者変心を企・・・島中之者共押而身方江引入」
  8. ^ 「山陽姓大宗系図家譜」「当島大浜邑赤蜂堀川原二人之賊党対于王府企変心、四ヶ年年貢抑留、島民全部同心」山陽姓の元祖は宮良親雲上長光であるが、その先祖が長田大主の弟・那礼当であるとして、事績を記している
  9. ^ 「長榮姓家譜大宗」「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」長榮姓は長田大主を元祖とする氏族
  10. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.261以後、「童名がーらの起源と其の継承」と題する章節で、がーら(加和良、加阿良)の実用例が多数挙げられている。
  11. ^ 宮古島旧記による表記。「忠導氏家譜正統」では「根間角嘉良天大之大氏」。かわらもがーらも同じである。天大は天太の表記がより一般的で、当時の首領格の称号。根間大按司の息子、目黒盛豊見親の父。空広の6代前の先祖。
  12. ^ オヤケアカハチ”. www.zephyr.justhpbs.jp. 2019年10月19日閲覧。
  13. ^ a b 「球陽(161号)」
  14. ^ 「山陽姓家譜(1730年代に成立)」を根拠として、仲間満慶山も含めた。
  15. ^ 長田大主の行動は以下による。「球陽(160号)」「八重山島年来記」「長榮姓家譜大宗」「山陽姓家譜」
  16. ^ 大浜pp.81。「元祖・石垣親雲上英乗・童名石戸能。彼の父は、満慶山の長子、嘉平首里大屋子・童名佐嘉伊の長子、嘉平首里大屋子童名満慶山である」
  17. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.294
  18. ^ 大浜pp.83。仲間満慶山についての系図訂正の請願書。請願者は10名だが、その中に憲章姓大宗英乗家の者がいないことを、大浜は指摘している。作成年代については「巳十一月」としかなく、請願者の役職を調査した上で、大浜が推定している。この文書は満慶山から英乗までの4代を次のように記している。「元祖嘉平首里大屋子英極満慶山。二代嘉平首里大屋子英潔童名石戸能。三代嘉平首里大屋子英文童名真蒲戸。四代頭石垣親雲上英乗童名石戸能」これには三つの問題点がある。第一に、満慶山の肩書が何故か首里大屋子になっているが、これは乱以後に生まれた概念である。第二に、二代と三代の童名が、「大宗家譜」のものと全然異なる。第三に、元祖・二代・三代に、「大宗家譜」では書かれていない名乗がでっちあげられている。
  19. ^ 高良pp.19
  20. ^ 高良pp.234
  21. ^ 「忠導氏家譜」「弘治十三年庚申、大将を遣わし征伐之時、玄雅父子、官軍之指導を為す也」/「球陽」160号「・・・大小戦船四十六隻を撥し、其の仲宗根を以て導と為し、」
  22. ^ 大浜pp.54「銭姓家譜」抜粋による。銭姓一世。唐名銭原
  23. ^ 「球陽」159号
  24. ^ 人数は「球陽」159号による
  25. ^ 長田云々については正確な日は不明。「八重山年来記」他多数に載る。
  26. ^ 「蔡鐸本中山世譜」の現代語訳を著している原田禹雄は、この箇所を「首を出して」と訳しているが、これは完全な間違いである。原文では「首出」と書かれているので、「首」は「出」の目的語では有り得ない。「首」には「はじめて」と訓読する副詞としての用法がある。
  27. ^ 大里の考えは「球陽」160号に依る。
  28. ^ この一文は「球陽」160号に基づく。「赤蜂、首尾相応ずる能はず。官軍勢に乗じ、攻撃すること甚だ急なり」
  29. ^ 「即ち仲宗根豊見親を擢んでて宮古頭職と為し、亦真列金豊見親を陞せて始めて八重山頭職と為す。真列金、衿驕自恣にして人民を暴虐す。彼の島の人民、みな疏文を具し、豊見親を琉球に告訴す。即ち頭役を革め去り故郷に摘回す」
  30. ^ 「忠導氏正統家譜」
  31. ^ 「八重山島年来記」「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  32. ^ 全て「山陽姓家譜」による。シシカトノの子供については「球陽(161号)」がより詳しい。ミツケーマの子供については、佐嘉伊が嘉平首里大屋子になった事が家譜から確認できるが、他7人は不詳。
  33. ^ 「球陽」160号では真乙姥、古乙姥
  34. ^ 長田大主の母と同名
  35. ^ 「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  36. ^ 「球陽(160号)」





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