エアフルト憲法 エアフルト憲法の概要

エアフルト憲法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/31 05:30 UTC 版)

沿革

上からの統一

1848年ドイツ革命フランクフルト憲法制定の失敗は、ドイツ国民によるドイツ統一が不可能であることを意味した[1]。すなわち、ドイツは、下から統一することはできず、上から(主権者の手によって)統一されるよりほかはないということが判明したのであった[1]。上からドイツを統一することができる者は、プロイセン王国オーストリア帝国とのいずれかであった[1]。そして、ドイツ統一の手段は、両者の妥協か又は戦争のいずれかしかなかった[1]。そこで、プロイセンは、オーストリアと妥協しつつ、ドイツを統一しようとした[1]1849年から1866年に至るまでのドイツ憲法の状況は、こうした根本問題を表現するものであった[1]。「鉄と血」の戦争によってのみ初めてドイツを統一することができるという先見と決心とは、オットー・フォン・ビスマルクの登場によって初めて確定した[2]

プロイセンの発案

ヨーゼフ・フォン・ラドヴィッツ

フランクフルト国民議会の力が衰え始めると、プロイセンは、早くも1849年5月17日に、国王の顧問ヨーゼフ・フォン・ラドヴィッツドイツ語版の司会のもとに[3]ベルリンにおいて各邦の代表者を招き、ドイツ統一の計画を立案した[4]。しかしながら、この招待に応じたのは、オーストリア、バイエルン王国ザクセン王国及びハノーファー王国の四邦のみで、他の各邦は、フランクフルト国民議会に反抗する会議へ参加することができないという名目のもとに、巧妙な日和見政策をとった[4]

しかしながら、プロイセンの提案の根本は、プロイセンを盟主とするドイツ各邦の国法上の連邦を組織し、この連邦国家とオーストリアとの間に国際法上の同盟関係を結ぼうとする点にあった[4]。これは、プロイセンが一方においてドイツ各邦を自己の傘下に集中しようと欲するとともに、他方においてオーストリアを武力によってドイツ国の国外に放逐しようとする決断と用意とを有していないことを明らかにするものであった[5]

プロイセンの提案を見たオーストリアは、これがオーストリアをドイツ国から放逐しようとする企てであるとして、また、バイエルンは、その中央集権的国家においてプロイセンが優越的地位を占めることを喜ばず、いずれも会議を脱退した[6]。それゆえ、問題は、ついに、プロイセン、ザクセン及びハノーファーの三邦間においてのみ議論されることとなった[6]。この三王国間に1849年5月26日に成立した同盟を、「三王同盟」と称する[6]

三王同盟

三王同盟は、プロイセンを盟主とするドイツ統一のための同盟であって、漸次、オーストリア以外のドイツ諸邦が加入することを想定したものである[6]。それゆえ、三王同盟規約4条は、「ドイツの将来の関係を時勢の要求に従い正義の原則に基づいて規定する誠意を実現するために、同盟各邦は、ドイツ国民に対し、同盟各邦が合意し、この条約に追加されるべき草案に従い、憲法を与えるべき義務を負う。/同盟各邦は、右の草案を、草案中の議会に関する規定及びこれに附属する選挙法の規定に従い、この目的のためのみに召集されるべき議会に提出しなければならない。/この議会における修正案は、同盟各邦の同意を得たときにおいてのみ有効とする。」と規定している[7]。しかしながら、三王同盟規約1条は、この規約がドイツ同盟規約11条に従って締結されたことを規定している[8]。これは、一見すると極めて不可解な条項である[8]。ドイツ同盟規約11条は、ドイツ同盟加盟邦が同盟条約を締結する権利を留保しているものの、同盟又はその加盟邦の安全を害する同盟を締結することができない旨の規定である[8]。すでにフランクフルト国民議会側において消滅したとされていたドイツ同盟規約をプロイセンが援用したのは、フランクフルト国民議会を否認する意味であったとしても、これがため、オーストリアに対して干渉の論拠を与えてしまったことは、プロイセンにとって不得策であった[9]。なぜなら、プロイセンがドイツ同盟規約の復活を認める以上、オーストリアは、ドイツ同盟の一員であることをもって、ドイツ同盟規約に基づく三王同盟に対して発言権を有するのは当然だからである[10]。ただし、プロイセンがオーストリアと一戦を交える決心がない以上は、やむを得ないことであって、ついに、屈辱的なオルミュッツ協定の締結に至るのは当然のことであった[10]

オーストリアの態度

このことから、三王同盟を基礎とするプロイセンのドイツ統一策は、一種の「曲芸」であったことが明らかである[10]。それゆえ、プロイセンがオーストリアに対して「プロイセンを盟主とする連邦国の建設に反対することなく、プロイセンの自由措置に任せる旨」の声明を要求したのに対し、オーストリアは、「未だ建設されていない国家との関係を協定することはできない」として一蹴してしまったのは、ドイツ統一に対するプロイセンの決意が軟弱であることをオーストリアに見抜かれていたからである[10]

しかしながら、プロイセンは、ザクセン及びハノーファーとともに、憲法及びその附属法典の草案を確定するところまで漕ぎ着けたのであった[11]

ここにおいて、三王同盟規約を実行するために、同盟諸邦の代表者によって構成されるプロイセン指導下の「管理委員会[12]」(Verwaltungsrat)が、1849年6月18日にベルリンにおいて開会された[13][12]。管理委員会の職務は、ドイツ各邦を勧誘して三王同盟に加入させ、憲法制定議会へと漕ぎ着けようとすることであった[13]。また、エアフルトには、連邦仲裁裁判所(Bundesschiedsgericht zu Erfurt)が設けられた[12]。そして、ついに、バイエルンほか六邦を除き、全ての邦の加入をみた[13]。ただし、これらの諸邦は、衷心からプロイセンの挙に賛成していたのではなく、オーストリアとプロイセンとの間で低徊し、いつでも形勢のよい方へ転回する危険を有していたのであった[13]

憲法草案の内容

三王同盟規約に添付された憲法草案の根本原則は、次のとおりであった[14]

  1. ドイツ諸邦を合わせて連邦国(ライヒ)とし、このライヒとオーストリアとの間の関係は、後日に留保すること(憲法草案1条)。
  2. プロイセン国王を世襲の「連邦首班[12]」(Reichsvorstand)とし、その下に各邦の主権者をもって組織する「王侯会議[12]」(Fürsten-kollegium)を設置すること。王侯会議は、6票の表決数からなり、プロイセン及びバイエルンを1票ずつとし、その他は4組に分かれて各組ごとに1票を有すること(憲法草案65条)。
  3. 議会(Reichstag)は、第一院を国民院(Volkshaus)、第二院を連邦院(Staatenhaus)と称し、国民院は国民によって選挙され(憲法草案83条)、連邦院は各邦ごとにその割り当てられた定員の半数を各邦の政府によって任命し、他の半数を各邦の議会によって選挙する(憲法草案84条、86条)。
  4. 国民院の選挙は、間接選挙であって、まず選挙委員(Wähler)を選挙し、選挙委員が議員を選挙する。そして、選挙委員の選挙は、納税額に従って三級に分け、各級が定員の3分の1ずつを選挙する(三級選挙法ドイツ語版)(選挙法草案11条、14条)。

上記の国家統治の組織を見れば、王侯会議は、おおむね君主国の君主の地位にあって、ただ、合議体を構成しているのを特色としている[15]。連邦首班は、その執行機関であり[15]、ライヒの執行権は、連邦首班と大臣とによって構成される内閣が行使する[12]。議会は、アメリカの議会に類似し、国民院は全国民を代表し、連邦院は連邦各邦を代表する[16]。ただし、その権限は、君主国の議会の地位に相当する[17]。国民院の選挙法は、フランクフルト国民議会の選挙法とは異なり、保守的な等級選挙・間接選挙となった点は、注目すべき点であって、すなわち、革命後の反動的な傾向を看取することができる[17]


  1. ^ a b c d e f 浅井 1928, p. 57.
  2. ^ 浅井 1928, pp. 57–58.
  3. ^ 山田 1963, p. 38.
  4. ^ a b c 浅井 1928, p. 58.
  5. ^ 浅井 1928, pp. 58–59.
  6. ^ a b c d 浅井 1928, p. 59.
  7. ^ 浅井 1928, pp. 59–60.
  8. ^ a b c 浅井 1928, p. 60.
  9. ^ 浅井 1928, pp. 60–61.
  10. ^ a b c d 浅井 1928, p. 61.
  11. ^ 浅井 1928, pp. 61–62.
  12. ^ a b c d e f 山田 1963, p. 39.
  13. ^ a b c d 浅井 1928, p. 62.
  14. ^ 浅井 1928, pp. 62–63.
  15. ^ a b 浅井 1928, p. 63.
  16. ^ 浅井 1928, pp. 63–64.
  17. ^ a b c d e 浅井 1928, p. 64.
  18. ^ 浅井 1928, pp. 64–65.
  19. ^ 浅井 1928, pp. 65–66.
  20. ^ a b c 浅井 1928, p. 66.
  21. ^ 浅井 1928, pp. 66–67.
  22. ^ a b 山田 1963, p. 40.
  23. ^ a b c d e f 浅井 1928, p. 67.
  24. ^ a b c 山田 1963, p. 41.
  25. ^ 浅井 1928, pp. 67–68.
  26. ^ a b c d e 浅井 1928, p. 68.
  27. ^ 浅井 1928, pp. 68–69.
  28. ^ 山田 1963, p. 42.
  29. ^ a b 浅井 1928, p. 69.
  30. ^ a b c d 浅井 1928, p. 70.
  31. ^ 浅井 1928, pp. 70–71.
  32. ^ a b c d e 浅井 1928, p. 71.
  33. ^ a b c d 浅井 1928, p. 72.
  34. ^ 浅井 1928, pp. 72–73.
  35. ^ a b c d 浅井 1928, p. 73.
  36. ^ 浅井 1928, pp. 73–74.
  37. ^ a b 浅井 1928, p. 74.
  38. ^ 浅井 1928, pp. 74–75.
  39. ^ a b c d 浅井 1928, p. 75.
  40. ^ 浅井 1928, pp. 75–76.
  41. ^ 浅井 1928, p. 76.
  42. ^ a b c d 浅井 1928, p. 77.
  43. ^ a b c d 浅井 1928, p. 78.
  44. ^ 浅井 1928, pp. 78–79.


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