アリー・イブン・アビー・ターリブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 05:36 UTC 版)
生涯
生い立ち
アリーは預言者ムハンマド同様、マッカ(メッカ)のクライシュ族のハーシム家に属す。祖父はムハンマドと同じくアブドゥル=ムッタリブで、父のアブー・ターリブはムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。
アリーは西暦600年ないし602年頃にマッカ(メッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、カアバ神殿内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。
アリーが5歳のときにアブー・ターリブ一家が窮乏に陥ったため、彼はムハンマドとハディージャの夫婦に引き取られて養子として育てられることになった。
青年時代
610年頃にムハンマドはアッラーの啓示をはじめて受けたという。このときアリーは、ムハンマドの妻ハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。以後アリーはムハンマドとともにイスラームの布教につとめるが、ムスリムたちは度重なるマッカ市民の迫害により、622年にマディーナ(メディナ)への亡命(ヒジュラ)を強いられる。
ムハンマドがマッカを出発する頃にはすでに事態は切迫しており、反対派は彼の殺害計画を練っていた。アリーはムハンマドがマッカを脱出した夜、刺客を欺くために身代わりとしてムハンマドの寝床に横たわった。やがて暗殺者たちが現われたが、彼らはムハンマドの不在を知ると失望し、アリーに危害を加えることもなく去った。アリーはムハンマドの指示によって、その後なお3日間にわたってマッカにとどまり、ムハンマドが知人から預かっていた金をすべて精算してからマディーナへ向かったという。
ヒジュラ後、アリーはムハンマドの片腕として教団の運営やジハード(聖戦)に携わった。とくに戦場における活躍は目覚しく、アリーはバドルの戦い、ウフドの戦い、ハンダクの戦いで次々に敵側の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も陥すことができなかったハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を次第に高めていった。
恋愛・婚姻関係
マディーナに移住した後、623年、ムハンマドはアリーに、娘のファーティマをアリーと結婚させるよう神が命じたと語った[1] 。この結婚は、イスラーム教徒にとって、ムハンマドの親戚の最も重要かつ神聖な人物たちの結びつきと見なされている。 ほぼ毎日娘を訪ねてきたムハンマドは、アリーに近づき、「汝はこの世界でも来世でも私の兄弟である」と告げた。 ムハンマドはファーティマに「私はあなたを私の一家の最愛の者と結婚させた」と告げた[2] 。アリーの家族はムハンマドから頻繁に称賛された。 彼らはまた、「浄化のアーヤ」のような場合にクルアーンで栄光を与えられた。 一夫多妻制は許可されたが、ファーティマが生きている間、アリーは他の女性を妻としなかった[3]。 ファーティマの死後、アリーは他の女性と結婚し、多くの子供をもうけた。
ムハンマドの死と継承問題
ウィルファード・マデルングによれば、アリーはムハンマドとの親密な関係とイスラーム教に関する幅広い知識によって、ムハンマドの後を継ぐのに最適な人物であると考えられていた[4]。
そこで、ムハンマドの晩年の妻アーイシャの父アブー・バクルが、選挙(ムスリムの合意)によって指導者に選ばれ、ムハンマドの代理人を意味するカリフ(ハリーファ)を名乗った。アリーは若さを理由に外されたと言われている。
- ^ Nasr, Seyyed Hossein. (12 October). "Ali".. Encyclopædia Britannica
- ^ Singh, N.K. (2003). Prophet Muhammad and His Companions. Ho. ISBN 978-81-87746-46-1.. Global Vision Publishing. p. p 175
- ^ Vaglieri, L. Veccia『"ʿAlī b. Abī Ṭālib". In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H.; Lévi-Provençal, E.; Schacht, J.; Lewis, B. & Pellat, Ch. (eds.). , New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. OCLC 495469456.』The Encyclopaedia of Islam、1960年、pp 381-386頁。
- ^ 『Madelung, Wilferd (1997). The Succession to Muhammad: A Study of the Early Caliphate. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-64696-0.』。
- ^ スンナ派のハディース集である『真正集』(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の第4章1節、第5章の2の10節、第7章4節他
- ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教13、p81
- ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教154、p257
- ^ “دشمنی عایشه با علی(ع) از زبان عالم سنّی” (アラビア語). پایگاه اطلاع رسانی دفتر مرجع عالیقدر حضرت آیت الله العظمی مکارم شیرازی. 2021年9月8日閲覧。
- ^ 『サヒーフ・アル=ブハーリー
- ^ 『اصفهانی، علی بن حسین، مقاتل الطالبیین』、vol 1 p 55頁 。
- ^ “تاریخ دقیق روز پدر و روز مرد در سال 1400 چه روزی است؟ | جدول یاب” (ペルシア語). بلاگ جدول یاب (2021年2月22日). 2021年9月9日閲覧。
アリー・イブン・アビー=ターリブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/09/24 21:27 UTC 版)
アリー・イブン・アビー・ターリブ(عليّ بن أبي طالب 'Alī ibn Abī Tālib、600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。
- 1 アリー・イブン・アビー=ターリブとは
- 2 アリー・イブン・アビー=ターリブの概要
- 3 シーア派の教義におけるアリー
- 4 スンナ派の教義におけるアリー
- 5 参考文献
- アリー・イブン・アビー・ターリブのページへのリンク