アリー・イブン・アビー・ターリブ 正統カリフたちの時代

アリー・イブン・アビー・ターリブ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 05:36 UTC 版)

正統カリフたちの時代

アラビア半島の統一を達成したアブー・バクル634年に病死し、ムハンマドの妻の1人ハフサの父ウマルが後継者に指名された。ウマルは中央集権的なイスラム帝国を築き上げ、642年ニハーヴァンドの戦いサーサーン朝を滅亡寸前に追い込んだが、644年奴隷に刺されて重傷を負い、死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘ルカイヤとウンム・クルスームを妻としていたウスマーンであった。ウスマーンは、650年頃にクルアーン(コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、651年にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、正統カリフという。

ウスマーンの死とアリーのカリフ就任

しかし、ウスマーンは自分の家系であるウマイヤ家を重視する政策を採ったため、クライシュ族の他の家系の反発を招き、656年に暗殺された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟で娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤが争った。紆余曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。

ムアーウィヤとの対立

アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤや、ムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフのアブー・バクルの娘アーイシャはこれに反発した。656年、アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦いアラビア語: موقعة الجملmwaqah al-jamal)で退けた。ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、657年スィッフィーンの戦いでアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことでウンマの一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。

ハワーリジュ派の登場

アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の分派と言われるハワーリジュ派(ハワーリジュとは「退去した者」の意)を形成した。

アリーの勢力の弱体化

ムアーウィヤは、660年に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将アムル・イブン・アル=アースに刺客を送った。アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。アリー自身はムハンマド存命中のウンマ防衛や異教徒侵略のための戦いで活躍したが、それは多くが数百の手勢を率い、自身も先頭に立って戦う野戦指揮官としてであり、個人的な武勇や戦術を超えた、数万の軍隊を指揮する戦略や有力な軍司令官や総督を引き込む政略では、ムアーウィアにはるかに及ばなかった。

アリーの最期

アリーの殉教を描いた絵画

ムアーウィヤは刺客の手から逃れたが、一方アリーは661年にクーファの大モスクで祈祷中にアブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムにより毒を塗った刃で襲われ、2日後に息を引き取った。正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる。アリーの暗殺により、ムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになる。これに反発したアリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンフサインおよびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬のイマームと仰いでシーア派を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになる。

一族

 
 
 
 
 
 
アブドゥルムッタリブ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アブドゥッラーフ
 
 
 
アブー・ターリブ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド
 
 
 
アリー
 
ジャアファル
 
アキール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ファーティマ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハサン
 
 
 
フサイン
 

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  2. ^ Singh, N.K. (2003). Prophet Muhammad and His Companions. Ho. ISBN 978-81-87746-46-1.. Global Vision Publishing. p. p 175 
  3. ^ Vaglieri, L. Veccia『"ʿAlī b. Abī Ṭālib". In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H.; Lévi-Provençal, E.; Schacht, J.; Lewis, B. & Pellat, Ch. (eds.). , New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. OCLC 495469456.』The Encyclopaedia of Islam、1960年、pp 381-386頁。 
  4. ^ 『Madelung, Wilferd (1997). The Succession to Muhammad: A Study of the Early Caliphate. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-64696-0.』。 
  5. ^ スンナ派のハディース集である『真正集』(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の第4章1節、第5章の2の10節、第7章4節他
  6. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教13、p81
  7. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教154、p257
  8. ^ دشمنی عایشه با علی(ع) از زبان عالم سنّی” (アラビア語). پایگاه اطلاع رسانی دفتر مرجع عالیقدر حضرت آیت الله العظمی مکارم شیرازی. 2021年9月8日閲覧。
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アリー・イブン・アビー=ターリブ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/09/24 21:27 UTC 版)

アリー・イブン・アビー・ターリブعليّ بن أبي طالب'Alī ibn Abī Tālib600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム


  1. ^ スンナ派のハディース集である『真正集』(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の第4章1節、第5章の2の10節、第7章4節他
  2. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教13、p81
  3. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教154、p257
  4. ^ ブハーリー著「真正集」遠征の書、第61章2節。ただしこれはシーア派に比してアリーを低く見るスンナ派側のハディースであり、シーア派からは批判されている[要出典]
  5. ^ ブハーリー『真正集』洗滌の書、第13章1節。


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