アクラ (要塞)
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歴史
背景
紀元前323年のアレクサンドロス3世の死後、ユダヤはエジプトのプトレマイオス王国とセレウコス朝シリアの間で争われていた。セレウコス朝の王であったアンティオコス3世がパニオンの戦いでエジプトに勝利し、ユダヤはセレウコス朝の支配下に置かれた。エルサレムに居住していたユダヤ系住民は、アンティオコス3世によるエジプトのエルサレム守備隊の駐屯地の包囲戦を支援した[2]。セレウコス朝は、第二神殿の境内に外国人や不潔な動物が入ることを禁止することを含めた、ユダヤ人の宗教的自由を認める憲章を定め、神殿での特定の宗教儀式の維持に公的な資金を割り当てることでユダヤ系住民の支援に報いた[3]。宗教的自由を認めたにも関わらず、多くのユダヤ人は高名で影響力の大きいギリシアの生活様式に誘惑され、要素を取り入れた。ギリシア文化はユダヤ人に政治的かつ物的進歩への道を提供し、ユダヤ人集団の中でヘレニズム時代のエリートを形成することにつながった。ヘレニズム化は、伝統を重んじるユダヤ人とギリシア文化に同化したユダヤ人の間に軋轢を生み出した[4]。
アンティオコス4世エピファネスは紀元前175年にセレウコス朝の王に即位した。その後まもなく、ヤソンは兄のオニアス3世が独占していた、イスラエル大祭司の地位に就かせてもらえるようエピファネスに請願した。ヤソン自身は完全にヘレニズムと同化し、その上街がギリシアに支払う朝貢料の増加や、ギュムナシオンやエフェビオン(若い人が運動に使うホール)を含むギリシアのポリスにあるような設備を設置することを確約した[5]。ヤソンの請願は認可されたものの、支配から42か月後にアンティオコス4世によってエルサレムから追放され、アモン王国へ亡命することを余儀なくされた[6][7]。その間、アンティオコス4世は2回のエジプト侵攻をそれぞれ紀元前170年、紀元前169年に行い、プトレマイオス軍を敗走させた[8][9][10]。セレウコス朝の勝利は長くは続かなかった。セレウコス朝とプトレマイオス王国の統合を企むアンティオコス4世の意向は、急速に拡大していたローマの国家に危機感を与え、エジプトから軍を撤退するよう要求した[10][11]。エジプトとの戦争中、エルサレムではアンティオコス4世が戦死したという噂が流布された。その後の混乱に乗じて、ヤソンは1000人の信者を集め、エルサレムへの襲撃計画を立てた。襲撃は撃退されたものの、襲撃の知らせがエジプトで交戦中であったアンティオコス4世の耳に届いたとき、アンティオコス4世は、ヤソンのユダヤ人たちがアンティオコス4世の失敗を利用して反乱しようとしているのではないかと疑った。紀元前168年に、アンティオコス4世はエルサレムに進軍し、神殿の宝物や住民の持ち物を略奪し、何千もの住民を虐殺した[12][13][14]。
アンティオコス4世は父であるアンティオコス3世の方針を覆し、伝統的なユダヤ教の儀式を違法とし、伝統を重んじるユダヤ人を迫害するという法令を発布した。神殿での儀式は中止され、ユダヤ教における安息日の遵守も禁止され、割礼も非合法となった[15][16]。その代わりとして、神殿にギリシアの神の像を祭った[17]。
建設とマカバイ戦争での活用
エルサレムでの支配力の強化や神殿の丘での出来事の監視、エルサレムのヘレニズム化した派閥の防衛のため、アンティオコス4世はセレウコス軍をエルサレムに駐留させた[18][19]。
そして彼らは、強大な外壁と強固な塔で囲んだダビデの町を造成し、それを駐留軍のために城塞(ギリシア語:Acra)とした。そして、彼らは罪人や悪人を配置し、訓練した。そして、彼らは防具と食糧を蓄え、エルサレムから略奪した品を集めた。そして、彼らをそこで寝かせ、大きな落とし穴となった。そして、この場所は聖域に対して、イスラエル中の悪魔が待ち構える場所となった。—『マカバイ記1』 1:35–38、[20]
アクラという名前は、ギリシアのアクロポリスに由来し、「町を見下ろす、そびえ立つ要塞化された場所」ということを表している。エルサレムでは、アクラは「不信心で邪悪な」要塞という、反ユダヤ教である異教徒の象徴となっていった[19]。エルサレムと周辺の田園地帯を支配したことで、エルサレムはギリシアの守備隊だけでなく、ユダヤ人の同盟国にも占領された[21]。
セレウコス朝下でのユダヤ人の信仰生活の弾圧は、先住民の間でかなりの抵抗に遭った。紀元前167年の間、アンティオコス4世が占領していた東部にて、モディインの司祭であったマタティアがセレウコス朝に対して反乱を起こした[22]。セレウコス朝も地元の親ヘレニズム派も反乱の規模を把握できなかった。紀元前164年、ユダ・マカバイによってエルサレムはセレウコス朝の支配から開放され、神殿は再び神聖化された[17]。周辺の都市は陥落したものの、アクラとその住民は抵抗した。マカバイは城塞を包囲し、城塞の住民はセレウコス王(アンティオコス5世)に支援を求めた。その結果、反乱を鎮圧するため、セレウコス軍が派遣された。セレウコス軍がベン・ツルを包囲したとき、マカバイはアクラの包囲を中止し、アンティオコス5世率いる軍と戦闘せざるを得なかった。続くゼス・べカリアの戦いでセレウコス軍はマカビーから初戦を勝ち取り、マカバイは撤退を余儀なくされた[23]。降伏を免れ、アクラは、ギリシアの駐屯兵を追放を目的としたハスモン朝の攻撃を数度に渡って防ぎつつ、セレウコス朝の城塞として20年間機能した[19][24]。
解体に関する諸説
ユダ・マカバイは紀元前160年に殺害され、遺志は弟であるヨナタンに受け継がれ、ヨナタンはアクラの供給ラインを遮断する障壁を築こうと試みた[25]。ベト・シェアン(スキトポリス)にて、セレウコス朝の将軍であったディオドトス・トリュフォン率いる侵攻軍との対決を強いられたとき、ヨナタンは既に障壁の建設に必要な人員を確保していた[26][27]。トリュフォンは、ヨナタンを友愛的な会議に招待した上で捕縛し、殺害した[28]。ヨナタンの遺志を受け継いだもう一人の弟であるシモンが最終的に、紀元前141年にアクラを奪取した[17][29]。
アクラの最終的な末路については、2つの文献が存在するものの、その説明は矛盾している。フラウィウス・ヨセフスによれば、シモンは住民を追放した後、3年がかりでアクラを破壊し[17]、アクラが存在した丘を切り開くことで神殿よりも低くし、エルサレムの邪悪な名残を一掃し、エルサレムの以降の支配者にその名残を否定させた[30]。マカバイ記1には異なった説明が書かれている。
そしてシモンは、エルサレムの住民は毎年この日を喜びで祝うべきであると宣言した。シモンは、城郭(ギリシア語: Acra)に沿って神殿の丘の要塞を強化し、部下とともに居住した。—『マカバイ記1』 13:52、[31]
この文献によれば、シモンがすぐにアクラを解体せず、代わりにアクラを占領し、アクラ内で居住していた可能性を示唆している[17]。マカバイ記1にはその末路について言及されていない。アクラは、エルサレムとその住民を監視し、操るための内なる関門として建造された。もし、ダビデの町がほとんどの学者が推測している位置にあったとすれば、アクラはエルサレムを外部の脅威から守るにはほぼ効果がなかったのではないかと思われる。恐らくこの場合、エルサレム上部にハスモン・バリスとハスモニアン宮殿が建造された後、紀元前2世紀末期に使用されなくなり、解体された可能性があると言われている[25]。
またバザレル・バー・コクヴァは、紀元前139年にアンティオコス7世がシモンが奪取したヤッファとゲゼルを要求した時点でもアクラは存在していたという、別の仮説を提唱している[32][33]。シモンは2つの都市に関しては議論するつもりであったが、アクラについては言及しなかった[34]。この時点でシモンは、セレウコス朝がエルサレムの領有権を主張したり、保持するという方法を封じたに違いないと考えている。したがって、アンティオコス7世がヒルカノス1世の治世にてエルサレムを鎮圧したときに、街にセレウコスの駐屯軍を配置することを除いて、アンティオコス7世の要求は全て満たされた[35]。アクラがこの時点で既に存在していなかったので、駐留軍が泊まる場所がどこにもなかったため、ヒルカノス1世はこの要求を拒絶し、アンティオコス7世に要求を諦めさせることができたのではないかと提言している。この説では、アクラの崩壊は紀元前130年代に起きたと推定している[36][37]。
注釈
出典
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